三月ぶりの山手線

報道関係者と賭け麻雀をしていたとして東京高検の黒川弘務検事長が訓告処分を受けた。辞職願を提出しても受理せず、懲戒処分とし、そのあと退職させるだろうと思っていたので、訓告で済ませ退職願を受理したのには唖然とした。

公立高校に勤務していた身としては、賭け麻雀が発覚した教職員に訓告で済ますなど考えられず、懲戒処分は停職を超え免職もありうるだろう。それに賭け麻雀で逮捕や起訴された有名人の事案をいくつか知っているが、これらに照らすと検事長の処遇は法治国家の根幹に関わる問題である。おなじ賭け麻雀でも一般国民は逮捕や起訴され、上級国民は退職金の減額されない訓告、実質お咎めなしでは法の下の平等などあったものじゃない。

もはやわが国の上級国民は共産主義国家のエリート層、ノーメンクラトゥーラ、いわゆる「赤い貴族」状態に近く、安倍内閣がめざすのは市場経済全体主義の融合なのではないかとさえ考えられる。とすれば首相と習近平の立場、考え方はけっこう近い。

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「プラムビーチまでのドライブは楽しかった。エイジアはシドニー・ベシェの音楽が気にいったみたいだった。"彼のクラリネットはひとが話しているように聞こえるから"らしい」。ウォルター・モズリイ『流れは、いつか海へ』より。

現代のハードボイルド小説に登場したなつかしいジャズ・ミュージシャン、シドニー・ベシェ、彼が作曲し、自身で演奏した「小さな花」(プチ・フルール)を長年愛聴してきたわたしに、ちょっとびっくりの挿話が本書にあった。

「わたしはベシェがパリで別のミュージシャンと決闘した話をして聞かせた。理由はキーを間違えていると言われたから。ただそれだけのことだ。『ほんとに?それでどうなったの』『ふたりともジャズマンであって、ガンマンじゃない。弾丸は見物人に当たった。たしか女性だ』」。女性の軽傷を祈る。

なお、このエピソードを語った私立探偵の名前はジョン・キング・オリヴァー。キングは子供がバカにされるのを防ぐため、もしくは敬愛するジャズ・ミュージシャン、キング・オリヴァーにちなんで父親が名付けたという。

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吉村昭『ふぉん・しいほるとの娘』はシーボルトと楠本滝(遊女だったときの源氏名は其扇)とのあいだに生まれたイネの物語だが、けっこう彼女の誕生まえのシーボルト事件に筆を費やしていて事件の全体像が知れる。

そこで秦新二『文政十一年のスパイ合戦』を取り出し、たちまちのうちに再読した。こちらは事件の深層を探る出色の史書もしくは歴史推理の傑作で、著者は事件を表、裏、奥の三つの層で捉える。表の主役はシーボルトと高橋作左衛門景保(天文方・御書物奉行)、裏の主役は事件の発覚に関わる勘定奉行村垣淡路守定行、間宮林蔵最上徳内たち、そして奥では事件と密貿易が絡む暗闘が将軍家斉と岳父島津重豪のあいだでなされる。

素人に批評は難しいが史料の読み込みは確かだと思う。ただし「奥」の将軍家斉、島津重豪をめぐる確実な史料はなく、ここのところをどうみるかが史書と歴史推理を分かつポイントとなる。ぜひ歴史学者の意見を聞きたいものだ。

十一代将軍徳川家斉(1773~1841)の将軍在位は一七八七年から一八三七年にわたっていて、多くの妻妾に五十人の子供を産ませた人とばかり思っていたが本書によると、なかなかどうして御庭番を巧みに用いて各藩に睨みを効かし、諜報活動を積極的に展開した将軍だった。在位中の大事件としては一八0七年の永代橋崩落と一八二八年のシーボルト事件とがあった。

「永代とかけたる橋は落ちにけりきょうは祭礼あすは葬礼」(大田南畝)そこでわたしもお粗末な一首を。「安全の神話頼みの人の世か昔永代今は原発

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NHKBSで「飢餓海峡」をみて、木全公彦『スクリーンの裾をめくってみれば』にある「三國連太郎『台風』顛末記」の頁を開いたところ、なかにこんな挿話があった。

飢餓海峡」の北海道ロケは一九六四年十月十九日、犬飼多吉(三國連太郎)が弓坂刑事(伴淳三郎)に連行される連絡船の上から投身自殺する場面でクランクアップした。このシーンで、内田吐夢監督は三國に本当に船から飛び降りろと命じたという。もちろん三國は「殺す気か!」と抵抗した。

そこで思い出したのが「七人の侍」の豪雨のなかでの乱闘シーンで、撮影中、ふつうの状態の馬でも乗りこなせる俳優は少ないのに、豪雨、泥濘で馬は興奮しているから振り落とされたり蹴られたりして一歩まちがえると命にかかわる、なんとかしなければと助監督の堀川弘通は訴えたが黒澤監督はとりあわない、やむなく「死人が出てもいいんですか?」と口にすると黒澤は「ああ、しかたないね。必ず死ぬとは限らないんだから」と応じたエピソードで、これに通じる内田吐夢三國連太郎への指示だった。

飢餓海峡」「怪談」と時期をおなじくして三國は「台風」を企画、監督する、そのかんシナリオになかった女性の自慰シーンを付け加えたり、「飢餓海峡」のロケ地北海道に志村妙子(太地喜和子)が追っかけてきたりと公私ともに大波乱のなかにあった。

「台風」は紆余曲折の果てになんとか完成したものの配給を約束していた東映は当初の企画とは別物となり、くわえて作品の質が水準を満たすものではないとこれを断り、自主配給もできないままお蔵入りとなった。のちにフィルムはピンク映画のプロダクションに売り渡されたが木全氏もそこから先は辿れていない。

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ロバート・リテル『CIA』は米国の諜報機関の米ソ冷戦からプーチンが台頭するころにかけての活動を扱った大河スパイ小説で、読み終えるとともにおなじ時代をイスラエル諜報機関モサドはどのような活動をしていたのか知りたく、マイケル・バー・ゾウハー『モサド・ファイル』(ニシム・ミシャルとの共著)、『ミュンヘン』(アイタン・ハーバーとの共著)、『復讐者たち』に挑戦したが同名映画の原作『ミュンヘン』のほかはいずれも歯が立たなかった。基礎知識がないうえに中東、イスラエルの複雑な関係についてゆけず、整理できず、書かれている内容から具体像が浮かんでこない。もうひとつエフライム・ハレヴィ『イスラエル秘密外交: モサドを率いた男の告白 』に挑戦したがあえなく挫折した。

数冊を断念し、坂道を転げ落ちるように読書のスランプに陥った。ときどきあることで、本を読む意欲、気力がまったくなくなってしまう。読書限定のうつ病で、なんにもせず回復を待つほかなく、いまサービスで視聴させてもらっている東映チャンネルの「極道の妻たち」シリーズをぼんやりとみている。年齢からしてもうモサド関連の本を手にする機会はないだろう。エスピオナージュのファンとして一抹のさびしさはぬぐえない。

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緊急事態宣言が発せられてから毎日自宅で珈琲を淹れている。珈琲はほとんど喫茶店だったから自室での珈琲は新鮮な魅力、いま飲んでいるのは「モカ飲んでしぐれの舗道別れけり 」(丸山薫)のモカだ。

明治の世にドイツに留学した寺田寅彦は「珈琲哲学序説」に「つぶしきれない時間をカフェーやコンディトライの大理石のテーブルの前に過ごし、新聞でも見ながら『ミット』や『オーネ』のコーヒーをちびちびなめながら淡い郷愁を瞞着するのが常習になってしまった」とベルリンでの珈琲タイムを回想している。

パリに目を遣ると「ふらんすへ行きたしと思へどもふらんすはあまりに遠し」と詠った詩人萩原朔太郎が「パリの喫茶店で、街路にマロニエの葉の散るのを眺めながら、一杯の葡萄酒で半日も暮らしているなんてことは話に聞くだけでも贅沢至極のことである」(「喫茶店にて」)と心惹かれたパリのカフェについてしるしている。

珈琲、喫茶店は西洋への入口だった。寅彦と朔太郎のエッセイからは日本人と珈琲の夢の時代が偲ばれる。

一九一一年(明治四十四年)に帰国した寅彦は日曜によく銀座の風月へコーヒーを飲みに出かけた、というのも「当時ほかにコーヒーらしいコーヒーを飲ませてくれる家を知らなかった」からだった。

それから大正、昭和戦前、そして戦後、獅子文六が小説『可否道』(『コーヒーと恋愛』と改題してちくま文庫)を読売新聞に連載したのは一九六二年から翌年にかけてで、作者は日本人の珈琲鑑賞力はけっこう高く、お茶を飲む習慣と関係しているのだろうと述べている。このころには「コーヒーらしいコーヒー」はふつうに飲めるようになっていた。

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外出自粛の成果でカード会社からの請求額がずいぶん減った。マクロ経済の縮みがミクロの家計に及んだしだいで、いつまでも経済が萎縮するのは困ったものだが、世間は通常の生活に戻ってもわが家は自粛生活の努力を忘れてはならず、年金生活で節約に努めてきたつもりだがまだまだ努力不足だった、と書いてさっそく前言を翻すようだが、きょう(六月九日)はJR上野駅で山手線に乗り有楽町の家電量販店へ買い物に行った。JRも東京メトロも緊急事態宣言が発せられてからは利用しておらず、このまえJRを利用したのは三月だったからいささか緊張気味で、マスクをつけ、Suicaスマホにきちんとインストールされているか、そして残高とオートチャージを確かめ自宅を出た。

山手線に乗ると目的の大型店で瞬間検温をされるのだろうか、発熱の自覚はないけれど引っかかるとどうなるのだ、PCRの検査機関へ直行を命じられるのか、高齢者は重症化しやすいと聞くぞ、など心配ごとがあれこれ浮かぶ。

こうしてひきこもり状態にあった前期高齢者はようやく目的のお店に着き、発熱検査もなく入店できた。在職中は法律の定める最低限の健康診断しか受けたことはなく、退職してからは自覚症状がない限り病院には行かないので発熱の検査にも不安反応を起こしてしまう。ぶらりと買い物に立ち寄るのも難しい現在を体感したのだった。

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二十年ほど前の話。おなじ業界の人で顔見知りの方が五十前後で亡くなった。直接の死因は知らないがアルコール依存が関係していた。もう日本酒では酔えない、焼酎じゃないと効かないといっていたそうだ。

そのころわたしは日本酒は仕事のつきあい以外では飲まず、晩酌はもっぱらビールかウイスキーで焼酎を常飲するようになったら終わりだなと思った。四十代のはじめだったか、先輩に芋焼酎をごちそうになったが飲めたものじゃなく「おまえ、その歳で焼酎飲めないのか?」とあきれられたこともあった。

それがいまでは晩酌に焼酎が欠かせない。焼酎をいろいろ試しているうちにウィスキーの割合が低くなった。加齢とともにウィスキーが効きすぎるようになり、いっぽうで焼酎の多彩と魅力を知った。

種田山頭火の日記の随所に日本酒を飲みたいのにかねがないから焼酎しか飲めないと愚痴と嘆きがしるされている。「だいたい焼酎を私は好かない、好かないけれど酒の一杯では酒屋の前を通つた位にしかこたへない、だから詮方なしに焼酎といふことになる、酒は味へるけれど、焼酎は味へない、ただ酔を買ふのだ」(昭和九年六月二十八日)といった具合で、わたしが先輩に勧められた焼酎もこれに近いものだったか、こちらが飲み慣れていないだけだったのかはいまとなってはわからない。

いずれにせよ昔は飲めたものじゃなかった。換言すれば焼酎ほど長足の進歩を遂げた酒はないような気がする。

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読書限定のうつ病がようやく癒えて本に向かう気力が湧いてきた。昨年モンテーニュ『エセー』を読み終え、来年はフランソワ・ラブレー『ガルガンチュアとパンタグリュエル』を読もうと決めていたが、すでに六月になりゆっくりと構えてはいられない。そこで前段として『渡辺一夫著作集』の拾い読みをはじめた。

フランス・ルネサンス文学を代表する作家ラブレーの物語はSFふう壮大なほら話のなかに笑いと風刺を織りまぜた傑作大長篇として知られるが、SFとのおつきあいはほとんどなく、ほら話にたいする感度も良好とはいえないわたしに向いているとは思えないのに、手にしようとしているのは渡辺一夫がフランス文学者としてラブレーとその著作に心血をそそいだ、その一点に尽きる。

渡辺はギョーム・ポステルについて述べた「ある東洋学者の話」にラブレーモンテーニュの名をあげ、かれらユマニストは「埋没されていた人間性の発見と、人間性を歪めるものの指摘と、人間性を守るのに必要な覚悟の提示」をなしたと書いている。これはまた氏が生涯をかけて取り組んだテーマであり、わたしのラブレーへの関心はここからきている。

「平和になったからと言ってだらけ切り、自由になったから責任は忘れられ、民主主義とやらになったら、数と衆だけが羽振りをきかせ、権利が重んぜられると義務が棚上げにされ、自制を伴わぬ消費や、懐疑を知らぬ信念や、歴史を恐れない行動や、人間が自分の作った制度・組織・思想・智識・機械・薬品を使いこなせず逆にそれらに使われている例が、日毎に見られるように思う」

これは渡辺が、明治このかた、とりわけ敗戦後の世相を見ながら「老耄回顧」にしるした所感。寺田透が「荷風の中にある、明治日本の実利主義と立身出世願望に対する嫌悪と蔑視、それに裏打ちされた柔弱の衒いと不同調の精神は、かれを渡辺につなぐ見紛いようのない靭帯と言っていいだろう」(「渡辺さんと荷風『も』」)と荷風渡辺一夫とのつながりを指摘していて、うえの所感は荷風に通じている。