マスクへの視線

吉村昭『海の葬礼』の森山栄之助、『黒船』の堀達之助はともに幕府の英語通詞であるとともに英語の先達として英和辞書の作成、編集にたずさわった。現物は未見だけれど、二人の人物像からまじめと愚直がしみわたった辞書だろうと想像している。

一昨年だったか二つの作品を読み終えた際に作者の歴史小説観や作中人物への言及をみてみようと『白い道』というエッセイ集を手にしたところ、そこに自身の小説世界を解説してくれている箇所があり、近現代の戦史小説については記録がふんだんにある、それら膨大な記録に溺れることを戒め、小説の中で記録が生きるように努める、いっぽう歴史小説は記録が少なく、庭石の飛石のように点在していて、その欠落部分を補わなければならない、補い方も確かな根拠に裏打ちされた推測で充填しなければならないと書かれていた。

このほどおなじ作者の『長英逃亡』を読み、毎度のことながら的確で綿密な考証に裏づけられた歴史小説に多くを教えられた。高野長英勝海舟と会ったエピソードや捕らえられたときの南町奉行遠山金四郎景元だった史実をはじめて知った。また、長英の最期は自死とばかり思っていたが、捕手たちが十手で打ち据えたことによる死亡説があり作者は後の説をとっている。

わたしは逃亡譚が大好きで、逃げるには追手の網を突破しなければならないから、それはおのずと冒険譚につながる。あくまでフィクションの話であつて、じつは『長英逃亡』もその延長で手にしたのだったが、さすがに史実にもとづく作品となると現実の厳しさが迫ってくる。

長英に頼まれて牢屋に火付けした男や逃亡中の長英をかくまったのが発覚し拷問を受けた医師のその後は哀れだ。ただし二人の男に恨み言や泣き言はない。吉村昭は、長英を助けようと心に期した行動として「確かな根拠に裏打ちされた推測」ではなく(「確かな根拠」を示す史料があるとは考えられない)自身の人間観にもとづいて二人の男の欠落部分を補ったのである。

氏が高野長英を取り上げようと思ったのは『ふぉん・しいほるとの娘』を執筆した際に閲読した史料の随所に長英が出てきたからだと述べている。となると『長英逃亡』につづいて『ふぉん・しーほるとの娘』に進まねばなるまい。書架にならべてあるが分厚いぞ、これは。

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三十代のはじめ定時制高校に勤めた。うかつなことに退職後に読んだ小沢信男『俳句世がたり』で夜学が秋の季語と知った。同書には昭和五年に二十六歳で早世した芝不器男の「窓の外にゐる山彦や夜学校」に寄せて「夜学校は一年中のことながら、とりわけ勉学の灯火に親しむ夜長の時候ゆえ」と説明がある。

また同書には「落第や吹かせておけよハーモニカ」が採られている。詠んだのは変哲、すなわち小沢昭一さん。落第は春の季語。最近はどうなっているか知らないがひところ秋季入学が議論されていて、仮に学年末が九月となると落第は秋の季語となる。ちなみにわたしは卒業、入学、人事異動は桜のころこそふさわしいとする立場だ。

そこで『今はじめる人のための俳句歳時記』(角川ソフィア文庫)で教育関連の季語をみたところ

「入学~入学式、新入生、入学試験」に「入学の日の雀らよ妻と謝す」(岸田稚魚)があった。四十年ほど前のわたしと妻の気持だな。おなじく春の季語に「卒業~卒業式、卒業歌、落第」「遠足」などがある。秋には『運動会」そして「夜学」。

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変哲を俳号とする小沢昭一さんは海軍兵学校予科の生徒だった。兵学校を選んだのはひとつに、殴られるより殴るほうへまわろうという思惑があったと語っている。軍隊内の学歴格差で、軍人学校志望者や学徒出陣組は殴るほうにまわれる立場にあった。体験者の正直な告白というべきだろう。逆側からいえば徴兵検査で入営すれば殴られ損というわけだ。

軍隊内のいじめでは上官による日々の殴打にくわえ、殴りあいをさせる、柱にしがみついてミンミン鳴く蟬のまねや両腕で身を支えて足を宙に浮かせて自転車漕ぎをさせられるといった事例がよく知られている。

それとは異なる証言もあり、一九二0年(大正九年)生まれの秋本安雄すなわち噺家春風亭柳昇は体験記『与太郎戦記』に、少なくとも下士官ともなればそうむやみに兵隊を殴ったりしない、軍隊に関する映画や小説ではとかく下士官が兵隊を殴るシーンが常識となっているようだが実情はそうでもない、戦地ではみんな実弾を持っており下士官より兵隊のほうの数が多いから仕返しの危険を考えないほど向こうみずの下士官はそうはいない、意地の悪い上官には朝食の味噌汁のなかに、汚い雑巾バケツの水をしぼって入れておくとかハエの目玉をすりつぶして上官の副食のなかにまぜておくなどの対抗策があった、そうすれば上官はちょうど適当な具合に腹をこわすと書いていた。

軍服がダブダブで「大きすぎます」と申告したら「軍衣に身体を合わすんだ!」としかられた。身体にフィットしない軍服を着たところで「どうだ、みんな、どんな気持ちがする?」「うれしいでありまァす!」「うそオつけ!!」。

与太郎戦記』にあるユーモラスなシーンだ。

他方で、昭和二十年五月に三十四歳で召集令状を受けた俳人能村登四郎は戸塚の新兵訓練所へ送り込まれ、本土決戦で捕虜になるなと切腹を教えられ、それからは精神棒とビンタに明け暮れたという。

「厠にて敗戦の日とおもひけり」

意地悪な下士官、殴る下士官、そうではない下士官もいて軍隊といったところだろうか。

 

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SARS重症急性呼吸器症候群)が大きな問題になったのは二00二年十一月から二00三年七月にかけてだった。当時五十代のはじめだったわたしは予防とか留意すべきことがらなどまったく意識になかった。若かった(というほどのこともないが)あのころ、なにも怖くはなかった。

ところが今回の新型コロナウイルス感染症については連日ニュースに注目し、図書館で週刊誌にある予防や留意事項に目を通し、子供たちにもメールを送り注意を喚起した。人間ができたのか、加齢とともに弱気になったのか。自分としては前者と思いたい。

マスクは鬱陶しく、防止効果もたいしたことはないらしいからいまのところ使わず、とりあえず簡単にできる二つのことを実践している。

ひとつは帰宅したとき二十秒間の石鹸、そのあと流水でしっかり手を洗う。もうひとつ食べ物としてはヨーグルトと納豆、これは常用していて、ならば二つを混ぜ合わせてみたところトルコ料理風味でなかなかよろしい。

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この三週間で二度ハーフマラソンを走った。新型コロナウイルスが感染拡大している時期だから疲労で免疫力が落ちるとまずいなと心配しながら走るものだからあとを引いて多少は神経質になってしまう。

マスクの人をみると、菌が入るのを防ぐためのマスクか、菌を撒いてはいけないと気を遣ってくださっているのかわからず、とまどってしまう。

地下鉄のホームにいると、両親と二人の児童がいずれもマスクをした家族がやってきたのでドキッとした。会話を聞くと日本語で、しかし四つのマスクが菌を撒くのを防ぐための可能性は否定できないから、別の車輌のドアから乗車しようとそっと離れた。マスクの人への視線はなかなか厄介だ。

これまで一度だけマスクを付けたことがある。

大学病院に入院している知人の見舞に行ったとき、ちょうどインフルエンザが流行していて、そのまま出かけようとすると家人がマスクをせよという。ちょっとの間の見舞なので必要ないというと、そうではない、あなたが外から病院へ菌を持ち込んではいけないからだ、とたしなめられた。マスクをするしないも自己中心であってはいけない。

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小沢一郎事務所のツイートに「うそつきが何を言うのか。一体どれだけうそをつけば気が済むのか。自分のうその連鎖で、この間、どれだけの人が苦しみ、人生を壊されたと思っているのか。本当に自覚・反省はないのか。財務省職員は命まで絶っている。もはやこのうそつき総理につける薬はない」とあった。

「いいね!」はしなかったが、森友学園加計学園桜を見る会などのいきさつから納得はした。と同時にわたしは、かつて村山富市元首相が〈細川連立内閣のとき「近く海外視察へ行くそうじゃのう」と訊くと「いえいえ、まだ日程も何も決まっていませんから」と答えて三日後に出発しとる〉といった小沢一郎氏とのやりとりを披露していたのを思い出した。その小沢氏が、安倍首相は人間としてどうなのか、いま問われているのは、総理御自身の人間性だという。

きょう(二月十九日)も桜を見る会前日の夕食会をめぐって安倍晋三首相の国会答弁と会場のANAインターコンチネンタルホテル東京(東京・赤坂)の説明が食い違っていて、首相答弁の真偽が問われている。

「つまづいた むかしは恋で いま段差」(長崎県福島洋子)。

わが日本は戦争でつまづき、原発でつまづき、そしていま嘘の政治でつまづいている。小沢氏のツイートは正論ではある。そして、氏は与党にあるときは権謀術数、野党にあるときは正論かともおもう。

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「それにしてもわれわれは大変な愚か者なのである。だって『彼は人生を無為にすごした』とか『今日は何もしなかった』などというではないか。とんでもないいいぐさだ。あなたは生きてきたではないか。それこそが、あなたの仕事の基本であるばかりか、もっとも輝かしい仕事なのに」

「『もっと大きな仕事でもまかせてくれたら、自分の能力のほどを発揮できたのに』だって?あなたは生活のことに思いをめぐらせて、それをうまく導いたではないか。それだけでも、きわめつけの大仕事を成就したことになるのである」。モンテーニュ『エセー』(宮下志朗訳)より。

なんとおおらかな人生の肯定感だろう。宗教戦争ただならぬ十六世紀のフランスに生まれた奇跡的な思考だ。

四十年近く勤務したなかではときに五時から男だとか猛烈熱血タイプの方たちにくらべて自分は勤労意欲を欠いているのでは、と思うときもあった。そのころモンテーニュを知っていれば、粛々と仕事をすればよいのだ、自分の勤労意欲はどんなものか、なんて思ったりするのは止そうと考えただろう。

こうしたことが頭にあったものだから「日脚伸ぶ励むにあらず怠けもせず」(清水基吉)の一句が心に響いた。

わたしがそうだったように、これぞ自身の姿だと思う方もいらっしゃるのではないか。

人間にとっての名誉ある傑作とは、適切な生き方をすることにほかならず、武勇を誇り、他国や都市の数々を占領した人々よりも、心が休まり、ほっと一息ついたあなたのほうがはるかにたくさんのことをしたことになると説いたモンテーニュに励まされていえば、職業人として過剰に励みもしなかったけれど、むやみに怠けもしなかったと、自己採点は甘くなりやすいと承知しながら、日脚が伸びるなかで総括した。それに「乃公出でずんば」といった力みはなく、さっさと定年退職して優秀な後進に道を譲り、隠居となったのは世のため、人のための最後のよいご奉公だった。

孔子様は「後生畏るべし」、自分よりも若い者はさまざまな可能性を秘めていると語った。しかるべき年齢がくればさっさと「後生」に道を譲ればよいのだが老後の蓄え、年金のありようでそうもまいらぬ世の中であり、そのぶん「後生」には皺寄せがおよびやすい。人生百年時代、できるだけ長く働こうとの掛け声はかまびすしく、隠居という言葉は死語になりそう、いや、もうなってるか。