熱情のゆくえ

人の熱情がどんなふうに推移するかについて、はじめは足元、つぎに身体の中ほどへ行き、そしてのど元へとたどり着いて、ここを最後の休憩場所とするという説がある。

二本足ですっくと立ち、身体の中ほどを核とする精力は快楽を求め続け、やがて精力減退の時期を迎えるとともに、のど元を通る料理と酒、すなわち口腹のたのしみの比重が増すというわけだ。

これまで食への関心がさほどなかったわたしのような者には、まだまだ残されたたのしみがあると思うとうれしい。それに「ものがわかる心の持ち主は、味覚もわきまえていなくてはならない」というキケロの言葉が示すように口腹のたのしみには人間に磨きをかけるという一面が含まれているらしく、そうなるとよろこびは倍増する。

歳をとるとともに性欲から食欲の比重が増すといっても、両者の関係はひととおりではなく、スペインの画家ゴヤは四十年にわたる結婚生活で、妻のホセーファに二十人もの子を産ませ、妻が死んで二年ほどたつと、六十八歳の彼はたちまち他人の妻だった女に子を産ませ、息子とその妻はゴヤのいつ枯れるか見当もつかぬ物凄い性欲に困り果てていた(堀田善衛ゴヤ』)そうだから、おそらく食欲のほうも相当なものだったはずだ。そうして八十歳になってなお「おれは勉強する」といって新しい技術の習得にはげんでいた。こういう人には性欲と食欲の比重など問題外である。

二十人の子供をなしたゴヤとホセーファ夫妻だったが、琴瑟相和す関係ではなく画家の女出入りは恐るべきもので、堀田善衛は「まことに性慾のかたまりのような男である。動物学的な性慾の持ち主であったと見做してよいであろう」と評している。

堀田はゴヤとともに、初夜に二十回と自慢していたヴィクトル・ユーゴーを併せて「こんなにもどぎつくて、濃厚で、露骨で、脂身にみちみちて、どこどこまでもぎらぎらとぎらついた存在と、果してつきあいきれるものかどうか」「いつか吐き気を催して、一切が厭になる時期が来るのではないか」と日本人と西洋人との関係に及んでいる。

たしかに食欲無類、精力絶倫の肉食系日本人であってもゴヤユーゴーと肩を並べるのはむつかしい気がする。

いま七十を前にした枯淡のわたしなど、ゴヤユーゴーのエピソードを聞いても羨望すらない。草食系か肉食系かなんて考えたことはなかったけれど、ここまで書いてきて、自分が草食系に属しているのがよくわかった。文章を書くのは自身について確認する作業でもある。

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ところでゴヤユーゴーでさえ無縁だったとは思われない身体の中ほどの問題がある。熱情のいたずら、もしくは休み時間、モンテーニュのユーモラスな指摘で紹介すると「必要としないときに、いやにうるさく出しゃばるくせに、もっとも必要なときに、実に具合わるく萎縮」したりするというやっかいなことがらである。

精力旺盛のときでさえままある現象だから、歳をとるとなおさらで、鍛えようにもこれといったやり方はなく、近頃ではよい薬もあるそうだからお助けを願うかどうかは人それぞれである。

そこで思うのだが、女の「でしゃばり」や「萎縮」はどうなっているのだろう。男の生理を明確、的確に表現した先哲モンテーニュにして女性の生理への言及は皆無だった。女性自身により語られた本があればよいが書架には見当たらないから、ある裁判の事例を通して考えてみよう。

その昔、カタロニアで、ある妻が、夫があまりに頻繁に夜の営みを迫ってくるといって訴えを起こした。これにたいし夫は、自分は精進潔斎の日でも十回以下では済ませることはできないと反論した。

アラゴンの女王は裁判で示すことがらではないとはせず、なんと、正当な婚姻に求められる節制と慎み深さの規範となるべき、恒久的なルールを示すとして、一日六回という回数を法にかなう必要な限界として定めた。そのうえで女王は、未来永劫にわたって不動のルールを確立するためにも、女性の性的必要や欲求を大幅に少なく見積もったと述べたという。

訴訟を起こした女性は別として、女王に「萎縮」はなく、「でしゃばり」は男のそれを凌駕していたのだった。

こうしてゴヤユーゴーアラゴンの女王とは好一対で、日本人は「こんなにもどぎつくて、濃厚で、露骨で、脂身にみちみちて、どこどこまでもぎらぎらとぎらついた存在と、果してつきあいきれるものかどうか」「いつか吐き気を催して、一切が厭になる時期が来るのではないか」が杞憂であればさいわいである。

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古代ギリシアの哲学者プラトン(BC427年~BC 347年)は老人たちに、若者たちがスポーツやダンスなどの身体運動をしているところに出かけて、肉体の美しさ、しなやかさを見出し、若かりし日の自分の魅力や人気のほどを思い出すよう勧めていた。

古代ローマラテン語詩人マルティアリス(40年?~102年?)は『エピグラム』に「過ぎ去った人生を楽しめるというのは、人生を二度生きることだ」と説いている。

時代は下って二十世紀、ボーヴォワールは著書『老い』の序文の一節に「老人が若い人びとと同じ慾望、同じ感情、同じ要求を示すと、彼らは世間の非難を浴びる。老人の場合、恋愛とか嫉妬は醜悪あるいは滑稽であり、性慾は嫌悪感を起させ、暴力は笑うべきものとなる。彼らはあらゆる美徳の手本を示さねばならない。なによりも、超然とした心境が要求される」と書いた。

いずれも老いは、若さとは一連のものではないことが前提とされていて、若さは老いが懐かしむ対象であり、老いには若さとは異なる心境が要求される。古典古代の時代はともかくボーヴォワール(1908年〜1986年)の生きた時代はつい昨日のことなのに老いと若さはこんなふうに意識されていたのかと思うと今昔の感に堪えない。

いっぽう日本の文学史ではこうした見方に異を唱えた作品に谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』という傑作がある。本書の七十七歳になる督助老人はすでに不能の身であるが、元レビューの踊り子で美しい脚をした息子の嫁、颯子さんに惹かれている。身体の中ほどを核とする精力はともかく、脚フェティシズムという熱情は旺盛で、その点では、若い人の欲望に負けるものではない。

谷崎は「老人の場合、恋愛とか嫉妬は醜悪あるいは滑稽であり、性慾は嫌悪感を起させ、暴力は笑うべきものとなる」といった老人観に逆らっていて、それは現代の多くの高齢者の心情を先取りしていた。

若者たちがスポーツやダンスなどの身体運動をしているところに出かけて、肉体の美しさ、しなやかさを見出し、若かりし日の自分を思い出したり、懐かしんだりするのは遠い昔の話であり、いまは若者たちが身体運動をしているなら自分もおなじようにやってみようとする高齢者が多くいる時代で、熱情は若さと老いを断絶させるものではなく、一気通貫している。アンチエイジングなんて聞いたらプラトンやマルティアリスは腰を抜かすかもしれない。

余談だが元気な高齢者が多くなったぶん、その犯罪率も増えている気がするが、どうなのだろう。報道からの印象では犯罪面からみても元気な高齢者が増えている。

いずれにせよ熱情において老いも若きもないのが現代の特質であり、ここではじめに戻ると身体の中ほどを核とする熱情がゴヤのように持続するのは大慶の至りだが、仮に衰えたとしても、次には口腹というか、のど元を核とするたのしみが待っている。