「家族を想うとき」

イギリス、ニューカッスルに住むターナー家は父母と高校生の息子と小学生の娘の四人家族。

借家状態の不安を解消したい父親リッキーは早くマイホームを購入したいとフランチャイズの宅配ドライバーとして独立を決意し、個人事業主として宅配事業者と契約する。

母親のアビーはパートタイムの介護福祉士として数軒の家庭を訪問介護し、一日中働いている。雇用主からの車の提供はなく私有車による移動だったが、夫がフランチャイズの配送事業を始めるには彼女の車を売って資本にするほかに方法はなく、やむなく車を手放さなければならなかった。

こうして夫は際限のないほどに宅配の荷物をさばかなければならず、妻は距離の離れたお年寄りの家々をバスで通うことになり、家庭の団欒は皆無状態、母親のアビーはなんとかして息子セブと娘ライザとのコミュニケーションを図ろうとするが、電話を通じての一方的な話とならざるをえない。

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原題は『SORRY WE MISSED YOU』。荷物をお届けに上がりましたがご不在のため……そしてお届けに上がった労働者の家庭では両親が不在で子供たちはさびしい想いを募らせている。

フランチャイズという仕組みのもとにある宅配ドライバーはノウハウの指導を受け、仕事をもらえるいっぽうで過失はすべて責任を負わなければならず、配送に行けない日は代替のドライバーを自分で探さなければならないなど縛りはきつい。家庭を守るために働いているのに低所得と長時間労働のスパイラルから抜け出せず、精神も肉体も披露の限界状態にある。

新自由主義経済にもとづく政策が推進されてからイギリスの下層労働者の家庭がどのようなことにみまわれているかを如実に示した作品であり、前作「わたしは、ダニエル・ブレイク」を最後に映画界からの引退を語った一九三六年生れのケン・ローチ監督が引退表明を撤回してこの作品を撮りたかった気持がひしひしと伝わってくる。現代イギリスの下層労働者の家庭がおかれている現実を提示した名作は綿密な取材と十分に練られた作劇術の賜物であり、この現実は日本にも通じている。

劇場を出るときふと目にしたポスターに、それでもこの家族は負けないとあったけれど本当にそうだろうか。

日中戦争が泥沼化したなかでの真珠湾攻撃について、それまで批判的だった人々のうちに、これでさっぱりしたと米英との戦争を支持した人たちがけっこういたと堀田善衛の自伝小説『若き日の詩人たちの肖像』にある。かれらにとり、もう泥沼はいい加減にして、さっぱりしたいと思っていたところでの開戦だった。これはいまの世界の精神的雰囲気に通じているのではないか。明日の世界の予兆?わたしがペシミストであればよいのだけれど。

(十二月十九日 ヒューマントラストシネマ有楽町)