はじめてのお茶の本~『日日是好日』

映画「日日是好日」に誘われて原作の森下典子日日是好日ー「お茶」が教えてくれた十五のしあわせ』(新潮文庫)を手にしました。わたしにははじめてのお茶の本で、素敵な映画がよい機会をもたらしてくれました。

一読、期待していた通り、映画とおなじくゆるやかな時間にたゆたいながら、さわやかな気持にしてくれたエッセイでした。

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本書はお茶を通じて触発された所感をしるした作品です。感ずるところは人それぞれで、著者は「お茶は、季節のサイクルに沿った日本人の暮らしの美学と哲学を、自分の体に経験させながら知ることだ」「世の中は、前向きで明るいことばかりに価値をおく。けれど、そもそも反対のことがなければ、『明るさ』も存在しない。どちらも存在して初めて、奥行きが生まれるのだ。どちらが良く、どちらが悪いというのではなく、それぞれがよい。人間には、その両方が必要なのだ」と述べています。

森下さんがあげた四季の移ろい、明るさと陰翳を含め、お茶についての思い、考え方は人生経験また個性や知性などに裏打ちされたものです。

トルコ珈琲を好んだ永井荷風は、そのすこし酸いような渋い味わいはフランス・オリエンタリズムの芸術をよろこぶ自分に「ゴーチェーやロッチの文学ビゼやブリュノオが音楽を思い出させるたよりとも成る」(「砂糖」)といいます。トルコ珈琲が荷風に文学、音楽を運んだように、お茶も各人に何かを届けてくれているでしょう。

そんなふうに考えると、人の数だけお茶はあるのですが、著者によると、それぞれのお茶をしっかり繋いでいるのがお茶と身体との深いかかわりです。

「だいじな人に会えたら、共に食べ、共に生き、だんらんをかみしめる。それが一期一会」といったふうに身体を通すところにお茶の土台があるようです。

映画では樹木希林さんが演じた武田先生が「頭で考えないの。手が知っているから、手に聞いてごらんなさい」「そうやって、頭で覚えちゃダメなの。稽古は、一回でも多くすることなの。そのうち、手が勝手に動くようになるから」「ダメ!お稽古中にメモなんかしちゃ」「最初は居ごこち悪く感じた『前向き』でも『横向き』でもない、『斜め四十五度』の場所に」と身体のありかたを強調するのはお茶を「自分の体に経験させながら知る」ためにほかなりません。

読んでいるうちに、お茶と身体とがだんだんとなじんでゆく境地に進んでみたい、そのためにみずからの手を動かしてみたい誘惑にかられました。

十六世紀のフランスの外科医で、多年にわたる軍医としての経験から外科学に大きな貢献を果たしたアンブロワーズ・パレ(1510頃~1590)は「人間は赤裸であり、これという武器も身にそなえていない代りに、(他の動物と比較して)手を持っている。そして、その霊魂(精神)には(他の動物の待っているような)性能はないが、人間は理性と言葉を持っている」、「(手と理性と言葉)この三つのものを身につけて、人間はおのが体を守り、これを防ぎ、森羅万象のなかでこれを大切に保護しているのだし、己の霊魂(精神)をあらゆる技術や知識で豊かにする」と述べています。

アンブロワーズ・パレについて、わたしは渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』(岩波文庫)で知ったのですが、うえのパレの所説をうけて渡辺一夫は「《手》こそ、《理性》と《言葉》だけにたよる人間の陥るかもしれぬ観念主義を修正する有力な武器ではないでしょうか?」と問うています。

十六世紀のフランスの外科医の発したキィ・ワード「手」は二十世紀の日本のフランス文学者を介してお茶に通じているようです。さきほどの武田先生の言葉はお茶が「観念主義」に陥らないようにするための大切な措置でした。

森下さんは、お茶は人間としての成長をめざすもの、ただし比べるのは他人ではなく、「きのうまでの自分」だといいます。わたしのばあい、意図して手を、身体を動かすのは長距離を走ることをもっぱらとしていて、スポーツですから人との競争は重要ですけれど、しかしここにも、「きのうまでの自分」との比較があり、その点でわたしの長距離走は森下さんのお茶に通じていると思いました。

はじめてのお茶の本でとくに印象的だったのはこの世界独特の名詞で、たとえば茶花(茶室に置く自然の草花や枝花)の「胡蝶侘助」「加茂本阿弥」「袖隠」「鳴子百合」「空木」「鷺草」「貝母」など、相撲の年寄名跡とおなじく和風の名詞の魅力ここにあり、なのでした。