ユリアヌスからモンテーニュへ

桜の上野公園とつつじの根津神社、ともにわが家に近い花の名所で、上野公園の花見のあとには根津神社のつつじまつりが控えていて、そのあいだには神社に沿って植えられてあるこぶしの木の花が咲き、目を楽しませてくれる。

「こふしの花なしの花はさくらと比をひとしうすなれども、まさりこそはせねともおとるにや」(『類船集』)

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毎年、公園も神社もたいへんなにぎわいだが、平成から令和へのことしは十連休とあってつつじまつりの人出は例年を大幅に上回っていたようだ。通いで根津へ来ている接骨院の院長が根津駅から職場まであるくのにたくさんの人でなかなか進まないとおっしゃっていた。

そのにぎわいのいっぽう、春は愁いを意識させる季節で『今はじめる人のための俳句歳時記』(角川ソフィア文庫)に、春愁は人の心のなかにおこる、わけのわからないような愁いをいうとあった。せっかくだから対となる秋思を見ると、もの思いの末、事に寄せ、物に寄せて秋のはかなさを感じることと説明されていた。

春愁と秋思、季節は異なっても心情的には似ているようだが、前者が春の季節になんとなくわびしくて気持がふさぐのにたいし、後者は、秋に感じるものさびしい思いをいう。「気持のふさぎ」と「ものさびしい思い」…….。

歳時記に「春愁や結婚披露宴豪華」(遠藤若狭男)がある。豪華な結婚披露宴への春の愁いは、それこそわけのわからない感情だろう。いっぽう、もの思いの末に感じる秋のはかなさについては恋に破れた男の嘆きとか、単身赴任中の夫を思う妻の淋しさが浮かんだ。

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先日、辻邦生『背教者ユリアヌス』を読み、ついで堀田善衛『ミシェル 城館の人』三部作(第一部 争乱の時代、第二部 自然 理性 運命、 第三部 精神の祝祭)に取りかかった。ユリアヌスからミシェル・ド・モンテーニュへと進んだのは、キリスト教と寛容のありかたを問い、考察した点で二人は通じ合っていると思ったからにほかならない。

モンテーニュに多大の影響をあたえたのはプラトンアリストテレスプルタルコスセネカなど古代の哲学者とモラリストだった。いっぽうキリスト教の論考については重要視しておらず、『エセー』ではアウグスティヌスがほんの十回ほど触れられている程度で、それも彼の思想の核とはずいぶんと離れていて、アウグスティヌス氏としては拍子抜けする程度のものだった。モンテーニュ自身「私は幼いときからローマ人とともに育てられた」と書いていて、この点でもユリアヌスとモンテーニュとは近しい。

堀田善衛モンテーニュの思想形成について「古ギリシャ、古ローマの文学と哲学が圧倒的な深さと重さをもって、彼の内面に存しているのである。その他のものは、たとえそれがキリスト教であろうとも、二次的なものでしかなかった」と述べていて「背教者」ユリアヌスと相似形をなしている。

それと『徒然草』の大好きなわたしは、モンテーニュ『随想録』をフランス・ルネサンス期の『徒然草』とイメージしていて、この当否はともかく、ずいぶんまえから読んでみたい作品だった。いずれ訳書に当たりたいが、まずは堀田善衛の描くモンテーニュだ。

辻邦生とおなじく、堀田善衛もほとんどご縁のなかった作家で、こんなふうに読書の世界が広がるのはたのしく、ありがたい。

『ミシェル 城館の人』はモンテーニュの伝記、『エセー』の研究、また、その生きた時代の社会のありようを丹念に書き込んでいて、西洋史の教科書のようでもある。いろんなものを包むことのできる評伝の効用が上手に活かされている。

『狂気について 渡辺一夫評論集』(岩波文庫)の編者清水徹が、ラブレーの研究と翻訳に打ち込んだ師の渡辺一夫が、おなじフランス・ルネサンスの時代を代表するもう一人の文人モンテーニュについてもっと書いてくださっていたらと残念がっていた。

その観点からすると、渡辺一夫がなしえなかったことを堀田善衛の文業は補って余りある。モンテーニュの人生をたどりながら、その生きた時代の歴史、社会の解説をほどこし、『エセー』の肝要箇所を示して親切に読み解いてくれる、門外漢にはじつにありがたい作品だ。

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世の中には事実の検証とおなじ、あるいはそれ以上に、そのことの話題になるのを避けたい事柄がある。他の男に妻を寝取られたなんて事態はその最たるものではないか。

プルタルコス『倫理論集』所収の「ローマ人に関する諸問題」によると、ローマ人たちは、旅先から帰るとき、先にわが家に使いをやって、妻に自分の到着を知らせて、不意を襲わないようにするのを常としたそうだ。妻を寝取られたうえフランス語にいうコキュと笑われては踏んだり蹴ったりでたまったものではない。

プルタルコスの所説をうけてモンテーニュは「妻を寝取られた刻印は拭いようがない。その刻印は一度ついたら、いつまでもついている。処罰をすれば、かえって恥を世間にさらすことになる……しかも、その不幸は、噂にのぼりさえしなければ、痛くも痒くもない」という。暗闇と疑惑のなかから引き出された夫婦間の問題は古来人間の悲喜劇であり、モンテーニュはその渦中にあった人だった。

「われわれの器官のなかでもっとも快適で有用なものは、生殖に役立つところのそれであろう」「キューピッド(ローマの愛の神)が私のまわりに、緋の衣をひるがえして、楽しげに踊り戯れていた頃……六度まで営み得たことをかすかに覚えている」。

モンテーニュの性の謳歌は伸びやかで、大らかだが、妻との性生活については「妻と寝る快楽にしたって、そこに節度が見られなければ、非難すべきもの」「最初のほてりによってそそられる、あの恥知らずの愛撫を、妻に用いるなど、ふさわしからぬばかりか、むしろ害でしかない」というふうに「節度」という妙な線引きをしている。

当時の結婚観を反映しているのだろうか「結婚というのは、神聖で、敬虔な結びつきなのである。だからこそ、そこから引き出される快楽というものも、控えめにしてまじめなもので、いくらかは厳しさが混じったものでなくてはいけない。幾分かは賢くて、きまじめな快楽でなければいけない」と説いている。

夫婦の同衾は生殖を目的としていて、妻にはともに享楽に耽るのではなく、家事家政を立派に務めるよう求めたモンテーニュであった。

夫婦のセックスは生殖のためと考えたとしても、しかし思いっきり広く例外を認めないと和合にはならず、どうやらモンテーニュ氏はそこのところが狭隘だったらしく、実弟サン・マルタンに妻フランソワーズを寝取られたのだった。

ある偶然から二人の情交を知ったモンテーニュは「私は多くの紳士が妻を寝取られながら、紳士らしく品位を保っているのを知っている。紳士たる者は、そのために同情はされるが、尊敬を失うことはない」「結婚の苦さも甘さも、ともに賢者は秘密にしておくものだ……われわれの生活は、半分は痴愚の中に、半分は知恵の中にある」と書いた。

不義密通に直面した男の賢くも切ない所感である。

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実の娘にセックスを強要した父親にたいし無罪判決を下した裁判官に驚き、唖然とした。

二0一七年の夏、当時、被害者女性は十九歳、訴えによれば、被告人である実の父親は、この年八月に自らの勤務先である愛知県内の事務所で、また九月には外出先のホテルで娘に性行為を強要したという。しかも強要は娘が中学生のときにはじまっていた。

名古屋地方裁判所岡崎支部の鵜飼祐充裁判長は強要を事実と認定しながら、二年前の出来事については抵抗しようと思えばできたとして準強制性交等罪は成立しないとしたのである。

法の世界における判断と、感情も含んだ現実の世界のそれがしばしば異なるのは知らないわけではないが、鬼畜の所業にこれで法治国家といえるのかとの疑問は消えない。

マケドニアのフィリップ二世は、息子すなわちのちのアレクサンドロス大王が宴席で、あまりに歌が上手なのを聞いて、「おまえは、そんなに歌がうまくて、恥ずかしくないのか?」といったという。余技は上手だが、本業は大したことはないと思われかねないのを心配したわけだ。

プルタルコスはこの挿話について「あまり必要ではない部分で優れた才能を示すのは、本来ならば、もっと必要で有益なことにあてるべき閑暇や勉学を、まずく使ってしまったことの証拠を、心ならずも露呈することになる」と述べている。

いくら歌が上手でも国王の後継者が政治力、判断力、リーダーシップを欠いては話にならず、理解力、判断力、良心を欠いた裁判官は怖ろしい。

「本業が下手な人の多い世間である。縁あって、本業が下手な人の腕にかかわりあうと、大変である」。(京極純一『文明の作法』)

ひょっとするとあの裁判官は余技のほうは上手なのかもしれない。

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「音楽は最高の芸術であるが、その音楽の批評家となるには、二つの資格が要る。一つには音楽が解つてはならない事、二つには解らない癖にお喋舌りをしたい事、この二つをさへ兼ねる事が出来たなら立派な音楽批評家となり得る」(薄田泣菫

「他人の食い気と色気に関して『俺のようにしなけりゃ本物じゃない』なんて、ああいう出しゃばり方を、世間ではホントのバカ、という」(荻昌弘

「おいしい、うまいと、その人なりの値打ちをつけて、楽しめばそれですむものを、どうおいしいのか人に説明したがる悪い癖の持ち主がふえてきたので、ややこしいことになった」(辻静雄

いずれも、ひとこといいたい症候群気味のわたしには耳に痛い叱言で、出しゃばっては、分かってもいないのにおしゃべりをしたがる悪い癖は心しておかなければならない。ネット社会の弊害としてバカが意見をいうようになったと指摘する御人もいる。

けれど、在職中ならともかく、退職してからも何かを語りたいのにそうはできない不満はもちたくないものだ。余生をどうかこうか過ごすに不満や苦労の少ないに越したことはない。バカが意見をいっているとの批判を甘んじて受けて、なお心しながら意見のひとつもいってみたい。