辻邦生『背教者ユリアヌス』の冒頭には作者が東大仏文科で師事した「渡辺一夫先生に」との献辞がある。旧制松本高校でドイツ語を学んだ辻がフランス語へ転じたのは「ただひたすら先生について文学を学びたかった」からだった。一九四九年の新学期、東大ではじめて渡辺の講義に出席した辻は、身体に異様な戦慄が走ったと回想している。
渡辺一夫は名著『フランス・ルネサンス断章』で、さまざまな人物を通して、寛容の精神の芽生えとその変化、成熟をたどった。辻邦生の献辞はユリアヌスの事績から考えると、渡辺一夫への学恩、とりわけ寛容への思いが深かったと想像する。
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『背教者ユリアヌス』はわたしがはじめて読む辻邦生の小説だった。高等学校で世界史を教えたといっても主たる関心は中国だったから西洋史はさほど勉強しなかった。ところが退職してヨーロッパ、北アフリカ、トルコを旅して、にわかに西洋史とりわけローマ帝国史への関心が深まり、『背教者ユリアヌス』が気になる本となった。
昨年の後半からことしのはじめにかけて北と南のイタリアを再訪し、チュニジアを旅して、『背教者ユリアヌス』はいまが読みどきだと手にした。とはいえ門外漢が文庫本四冊の長篇小説を読み切れるだろうか、いささか不安だったが明確な主題と明晰な文章のおかげで一気に読めた。
解説の篠田一士が書いているように「これほどの長大な小説を一気に読めというのは無理無体のようにきこえるかもしれないが、ひとたび本をひらけば、一気に読める、いや、そういう風に読まずにはいられない」のだった。
ちなみに篠田一士は「叙事詩とはなにか。一口で言えば、一つの文明を代表する一国、あるいは一社会の興亡をひとりの主人公、もしくは数人の人物から成る主役群の運命に託して物語る文学作品である」と述べ、この長編小説をローマ帝国とキリスト教をめぐる優れた叙事詩と評した。
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「警備の兵士たち、行商人、旅まわりの芸人、旅人たちが町々、村々を訪れて、いつか人々は広場をローマ風の彫像や噴水で飾り、円形劇場をつくり、神殿をたて、衣服、髪形などもローマの風俗がそのまま取りいれられるようになっていた」。
「トランペットが高らかに吹奏された。剣闘士たちは相対峙して並び、楯を前へ伸ばした」「最初の一組は剣を何度も打ち合い、その鋭い音が円形闘技場の全体にこだまとなって響いた」。
『背教者ユリアヌス』にあるローマ属州の風景だ。
「はあ?そんなガリアの果てに闘技場が?」
「そうだ。ローマ人のいるところには神殿と劇場と闘技場は欠かせぬからな」。
このようにして街はつくられていったが、やがて神殿の多くは教会に取って代わられた。その重要局面にユリアヌスはいた。そのなかで「ローマは、ガラリヤの連中のあの排他的な信仰と競争するのだ。ローマの輝かしい繁栄が都市都市に拡がり、神々の頌歌が人々を甘美な思いで満たすならば、ギリシア古代の叡智が必ずローマにふたたび実現する。きっと実現する。(中略)私は寛容を貫き通す。それがローマの精神だからね」と決意していた。(写真はチュニジアで)
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『背教者ユリアヌス』で哲学、修辞学を学ぶユリアヌスの親友ゾナスは「しかし政治というのは、頭のなかで考えたとおりに決して実現しないのだ。頭のなかでは、おれたちは丸い完全な形を夢みている。だが、それが実現する際には、三角になったり、梯形になったり、歪んだりするのだ」と語る。
政治はときに「頭のなかで考えたとおりに決して実現しない」、それどころか頭のなかで考えたこととは反対のことを現実のものとする。ベトナム戦争を終結させたのはタカ派のニクソンであったし、社会党出身の村山富市首相はあれほど反対していた消費税率の値上げ方針を決定しなければならなかった。
どうしてそうした現象が起こるのか。まず時代の流れがある。将棋倒しのように倒れ来る人波をひとりで押しとどめることはできない。また、存念とは反対のことがらであっても権力を保持したいという欲望が作用する場合もあるだろう。あるいは、あの人もやむをえずやっているのだからと、旧来の支持者の同情や「忖度」が働いて、かえってやりやすい事情もある。
なにはともあれ政治は結果責任の世界だ。
それに対しユリアヌスは「どうか、諸君、これだけは覚えていて貰いたい。われわれの意図がこの世で実現せられずとも、人間にとって意味があるのはその意図であって、結果ではないということを」と語った。
この言葉はなにかに基づいているのだろうか。あるいは辻邦生の創作かもしれない。いずれにせよ、結果責任を重視する立場からみるとユリアヌスは決定的に政治家に不向きな人だった。
そして神に身をゆだねるよりも理性を信じた「背教者」だった。
「賢しき人間の理性を信じるな。人間の意思を棄てよ。心を貧しくして一切を神に委ねよ」
「ある男が言っていた、神にすべてを委ねたらね、憂苦がまるでなくなったとね。そうなんだ、彼らは考えることを投げ棄てて地上の憂苦を忘れようとしているんだ」。