「運び屋」

 デイリリーという高級ユリの栽培に打ち込み、その世界では名の知られる存在になったのはよかったが、娘の婚礼にも出席しないほどに家庭を顧みず、けっきょく妻子と別れて暮らすはめになった男アール・ストーン(クリント・イーストウッド)がインターネットの普及とともに商売もうまく行かなくなり、九十歳を前に自宅と農園を差し押さえられてしまう。

 たまたまメキシコの麻薬カルテルが、無名、高齢、交通違反の切符を切られたことのないところに目をつけて、アールは運び屋稼業に就く。

 はじめ運んでいるのが麻薬とは知らなかったアールだが、知ってからも運び屋を続け、警察のノーマークをよいことに運搬量はどんどん増えてゆく。

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 こうして「運び屋」は風変わりな麻薬犯罪譚であり、やがてコリン・ベイツ捜査官(ブラッドリー・クーパー)を中心とする捜査陣の追求の手が老人に及んでサスペンスがくわわり、そうするうちに麻薬カルテルの組織(親分はアンディ・ガルシア)に内紛が起こる。

 アールは稼いだ金で差し押さえられた家屋と農園を取り戻し、別居する妻と娘の家計を扶け、自らもメンバーである第二次大戦の復員軍人組織の財政難を救う。

 妻と娘との絆を復そうと努めるなか「おれはほんとにダメな男、至らない夫だった」と悔いるアールに、十二年のあいだひとことも口をきかなかった娘アイリス(アリソン・イーストウッドクリント・イーストウッドの実の娘)が「遅咲きだっただけなのよ」と声をかける。(ここのところを私小説ふうに解釈する向きもあるが、わたしはそうした映画の見方は好まない。)

 犯罪劇にして、老いた運び屋のロードムービー、奇妙な味とユーモアを湛えた追跡劇、そして家族の絆の回復という愛情物語がみごとに詰まった傑作だ。

 ひょっとすると運び屋が運転しながらに口ずさむ曲と物語の展開をリンクさせてみるのもおしろいかもしれない。エンドロールでの音楽も名品で、音楽劇の香りもただよう。

 クリント・イーストウッドが監督と主演を兼ねるのはひさしぶりで、頑固な元軍人と移民の少年との交流を描いた「グラン・トリノ」(二00八年)以来だ。今回の脚本を担当したのはニック・シェンク、そう「グラン・トリノ」でデビューした脚本家で、八十を過ぎて運び屋にスカウトされた貧しい老人の実話をもとに、クリント・イーストウッドに当て書きしたその出来具合は当人を、大いにその気にさせたと想像した。

(三月九日TOHOシネマズ上野)