情とカネ

  火災保険のなかった江戸時代には、問屋と小売店との関係は密接で、どちらかが火災にあうと、災禍を免れたほうが親身になって面倒をみたという。相互扶助と火災保険の合わせ技であるが、のちに保険業者が現れると問屋と小売店の紐帯はだいぶんゆるんでしまった。邱永漢象牙の箸』にあるはなしで、ここから著者は「情というものは必要があってこそ生ずるのであって、必要もないのに情け深くあれと望むのは望む方が無理であろう」と述べている。保険制度の発達と情の度合とは反比例しやすいと考えてよさそうだ。 

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 週刊誌で、患者によっては効果は高いが、保険適用外で値段も高い薬についての記事を何度か読んだ。それらの薬のなかには医療費とあわせてひと月三百万近くかかるものもあるという。二、三か月で完治すればともかく、効果の有無は人それぞれで、効果があるとしても治るまでの期間が不明というのは怖ろしい。

 富裕層はともかく、ふつうの家庭ではおいそれと出せる金額ではなく、自由になるカネのなかから可能なところまで試してみる、というのが関の山だろう。つまりは株式投資とおなじく、あくまで自己責任で行うべきもので、そこに情の絡む余地はない。

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情とカネが絡むものに寄付金がある。カネではなく労働力を差し出すばあいを含めるとボランティア活動も関係している。

寄付金、ボランティア活動ともに情に発した無償の行為である。ところが何を勘違いしているのか、お上あるいはその近くには、なかば押しつけで供出させてもよいくらいに考えている方々がいる。

現職時に、ある国際機関の方が寄附金について話があるとやって来て何やら表を見ながら、ここはよそと較べて金額が少ないと叱るが如くに発破をかけられ、寄附のお願いにいらっしゃったのだろうと考えていたわたしはその高圧姿勢に呆然とした。

寄附金を求める訪問者が多かったのだろう、永井荷風が「偏奇館漫録」に「野良犬は水をかければ尾をまいて逃ぐ。乞食は巡査を呼ぶぞといえば恨めし気に去る。然るに寄附金の募集者に至っては救世軍の大道演舌もよろしく田舎訛の訥弁を振って容易に去らず、時にはユスリ新聞の記者の如く取次の挨拶如何によっては乱暴もしかねまじき気勢を示すものあり」と書いている。

昔も今も、目的が正しいからと、寄付金をむしり取ることなどなんとも思わない独善派は多いようである。

ここから類推して、東京オリンピックの担当部署でも大学別のボランティア動員数を棒グラフにして、ここはもっと出せるだろう、たいして偏差値も高くなく、勉強などどうでもよいのに、生意気じゃないか、ひとつ訪ねて行ってケツを叩いてやらなくては、なんてやりとりをしているシーンを想像した。