むかし東大英文科のなんとかという教授はたいへんな記憶力の持ち主だったが弱点がひとつあって植物の名に疎かった。
教室で英語のテキストに植物名が出て、日本語で何というのかわからない場面、しかしこの先生、慌てず騒がず、かといって辞書を引くのでもなく、平然と「にわとこ」と訳していたそうだ。わからない植物名はすべて「にわとこ」で、たしか丸谷才一さんの随筆で読んだ。
辞書でみると「にわとこ」(庭常、接骨木)はスイカズラ科の落葉低木とあるが、それとは関係なく件の東大の先生はこの植物名にちょっとした霊力を感じていて、曖昧模糊、茫洋とした語感が、訳語のわからぬ植物のいずれにも転用が利くと重宝してい、学生たちも「にわとこ」はなんだか変だけれど、目くじら立てるほどじゃないと聞き流していたのだろう。
このように、あいまいなままに処理される事例があれば当然その逆もある。
あるとき『チボー家の人々』を訳していた山内義雄は不明のフランス語を辞書で引いたところ「【医】裏急後重」と説明があった。医学用語というが、漢字を見ても推測すらできないから、そのままでは訳語にならない。「にわとこ」には寛容な読者であっても「裏急後重」となるとそうはいかない。
難渋した『チボー家の人々』の名訳者は友人で仏文学者の鈴木信太郎に問い合わせたところ鈴木先生もそんな言葉は聞いたこともなく、手許にある数冊の古い日仏辞書にあたってみたが、「りきゅうこうじゅう」はあったものの、辞書によって「裏急絞汗」や「裏急絞痛」の漢字が当てられていただけでなんのことやらわからない。そこで知り合いの医者に訊ねると、赤痢などのときのひどい渋り腹さとこともなげに答えが返って来た。
『日本国語大辞典』(小学館)にあたってみると、「裏急後重」は見出し語にあり「下痢で、排便後またすぐに便意をもよおす状態」との語釈、また用例として谷崎潤一郎『細雪』が採られていた。
「裏急後重」と『細雪』との取り合わせは意外というほかないのだが、それにしても谷崎潤一郎はめずらしい言葉を知っていたものだ。
ところで山内義雄先生は「裏急後重」をどのように訳されたのだろう。博雅の士の御教示を待つ。