台風24号の翌朝に

日本列島を縦断した台風24号。東京では九月三十日から翌日未明にかけて暴風が吹き荒れた。十月一日の朝は快晴で、いつものように上野公園を走ったところ、不忍池のほとりや桜並木でけっこう大きな樹が折れていて風の強さに驚いた。スマホを持って走る習慣がなく、午前中もう一度出直して写真を撮った。

そのあと谷中へ廻り感応寺にある、森鴎外の史伝小説で知られる渋江抽斎の墓と、すぐ近くの自性院、愛染寺に詣でた。自性院の愛染明王像と桂の古木は川口松太郎が「愛染かつら」のヒントとしたといわれる。映画では上原謙田中絹代がタクシーに乗り、上原が「谷中へ」と口にするシーンがある。

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上野公園内の東京都美術館では今年歿後五十年にあたる藤田嗣治展が催されていて、わたしは九月の平日に見に行き、そのあと歳時記で「秋分ユトリロを見て嗣治見て」(児仁井しどみ)を知り、句にあるように人出の多さを恐れず秋分の日に行けばよかったかなあ、なんてちょっぴりうじうじした。

美術展覧会は年がら年中開かれているが、俳句の世界では秋の季語とされる。芸術祭、院展、二科展、日展もおなじ。
芸術の秋と対になるのが体育、スポーツの秋で、運動会も秋の季語だが、こちらは学校行事の見直しで春に行うところも多くなっている。
「運動会少女の腿の百聖し」を詠んだ秋元不死男は一九0一年に生まれ七七年に歿した。不死男の見た少女たちの着けていたブルマーはどのような形状だったか。これが晩年の作とすれば従来のもんぺ・ちょうちん型ではなく、スポーティなショーツ型だったかもしれない。わたしはこの種のフェティシズムへの関心はないけれどこの句にみょうに反応した。
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池井戸潤『株価暴落』を読み終え、Amazonビデオにあるテレビドラマも見て、池井戸マイブームを小休止し、原籙『それまでの明日』に取りかかった。日本におけるチャンドラーの嫡子といえばまず挙げられるべき作家の私立探偵沢崎シリーズ、十四年ぶりの新作だ。
百頁あまりを読み、これほどスラスラ読める作家だったかと不安を覚えたが、前作を読んだのは在職中だったからまとまった読書時間はとれなかったのだろうと納得した。作者はフリージャズのピアニストでもある。ずいぶんメロディは崩したと想像するが、小説のほうはチャンドラーのコード進行に則ってメロディを奏している。
依頼人に会うことさえできない探偵が事務所に持ち帰ってきたのは、消費期限の切れた炭酸飲料のあぶくのような徒労感だけだった」
「翌日の午後、戦力外通告を受けたスポーツ選手のように覇気のない薄曇りの陽射しの中を、私は新宿署へ出かけた」。
こうした冴えた比喩が一人称ハードボイルドの文章にシブい魅力を添えている。
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海外ミステリーファンのわたしがよく参考にしているのは池上冬樹氏が執筆する「週刊文春」の海外ミステリーレビューで、このほど2011〜2016年の記事が電子本にまとめられたので読んでいると、ブックオフからのメールが届き、誕生月だから三千円以上購入すると五百円引きとあり、これで今月も書籍費の節約はならなかった。
「ミステリーレビュー」に紹介されているなかから、目星をつけた作品を書き抜き、ブックオフの在庫や価格を調べてリストアップする。この時間帯は実際に作品を読むときより心踊るひとときかもしれない。こうして三千円を少し超える金額の本を注文、実質二千五百円ほどで文庫本とハヤカワミステリをあわせて二十三冊が届いた。
これとは別に霜月蒼『アガサ・クリスティー完全攻略』(ハヤカワ文庫)に刺激を受け、クリスティー攻略作戦を開始した。完全とはまいらぬが霜月氏の紹介文や評価を参考にして選んだ作品を読んだうえで映画、テレビドラマを鑑賞する攻略は、これまでのところ『五匹の子豚』、『杉の棺』、『葬儀を終えて』を完了、そうして『カリブ海の秘密』と『ナイルに死す』が控えている。折しもCS放送のAXNミステリーチャンネルではポアロミス・マープルのシリーズを放送している。
映像作品のストーリーを追うのが苦手なわたしは原作を読んでから見るほうが向いている。会話を主にテンポよく物語が展開するクリスティー作品はスイスイ早く読めるが、走りすぎるとほかの本が読めなくなるからいまのところひと月ふたつの作品のペースで攻略中だ。
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NHKBSで放送された「大統領の陰謀」を久しぶりに見た。ニクソン側近の部下による民主党本部への侵入と盗聴、不法な資金融資など大統領選挙を睨んだ不正行為を見ていると、ときに脳裡にトランプが当選したアメリカ大統領選挙にロシアの関与があったとされる報道がよぎる。国際版ウォーターゲート事件である。
そこでルーク・ハーディング『共謀 トランプとロシアをつなぐ黒い人脈とカネ』(集英社)を開いてみた。著者はガーディアン紙の元モスクワ特派員、本書のテーマは上の副題がズバリ示していて、プーチンのロシアがどれほど卑劣なことをしていたかがよくわかる。それを最初に体系的に指摘したのは元MI6のメンバーが主導する民間インテリジェンス組織だった。
たとえば大統領選を前にアメリカの活動家を装ったロシアの工作員フェイスブックの偽名アカウントを用い、星条旗とともに「もうたくさんだ、故郷に帰れ」とか、小さなメキシコ人をつかんだトランプの絵とともに「きみはおうちへお帰り!」といった記事を投稿し、トランプへの好意的反応を巻き起こそうとした。その背景には人種、銃規制、LGBTの人権などをめぐるアメリカ社会の断絶があり、ロシアはここにつけこんで大統領選に介入したとされる。
プーチンの指示による関与が事実ならばトランプ政権の正統性に疑問符が付くのはいうまでもない。ただし米国も他国に同様のことを行ってきたから被害者ヅラだけでは済まされない。そこのところアメリカ国民はどのように考えているのだろう。
ともあれ本書に詳述されたロシア疑惑には怒りを覚えるけれど、しかし政治の世界では、騙しはできても騙されずというのが鉄則で、オバマ政権はロシアへの対応を誤ったのではないか。
もちろん疑惑はすべてが実証されているわけではないけれど、本書の見方、見解に立てば、米国の現政権はロシアの特務とならず者に繋がる人物の巣窟として過言ではない。
トランプ政権の主たるメンバーを挙げて著者はいう「まるで、プーチンがトランプ内閣のメンバーを指名したかのようだ。もちろん、実際に選んだのはあのアメリカ大統領である。しかし、選ばれたメンバーの配置と、一人残らずロシアとのつながりを持っているというその特徴」から見えるのは「共謀」にほかならない、と。
「『共謀』の向こう側にある姿はあまりに醜悪だ。/このような疑念こそ、ロシア疑惑の本質といえる。/ロシア疑惑とは一体何だったのだろうかー。醜悪な事実か。トランプ氏が主張するような「全くのでっち上げ」か」(本書巻末の前嶋和弘氏の解説)。モラー特別検察官の捜査を注視しよう。
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七月だったか某旅行社からのダイレクトメールを眺めていると、モンテネグロアルバニアマケドニアを廻るツァーが載っていた。モンテネグロは行ったことはあるが、アルバニアマケドニアへのツアーはめずらしい。これまで見落としていたのかもしれないが、はじめて見る企画だった。いっぽうで、まずいものを見たなあ、カネがかかるじゃないか!と思ったが、その日のうちに上野にある当の旅行社の支店に足を運んだ。
そうして十月十四日「ヨーロッパ最後の秘境〜バルカン半島絶景巡り」と銘打たれた旅に出た。旅程は、成田空港からイスタンブール空港経由でモンテネグロのポドゴリツア空港へ。そこからコトル、ブドヴァを観光してふたたび首都のポドゴリツアへ。
ポドゴリツアからバスで国境を越えアルバニアへ。ここでは首都のティラナ、クルヤ、ベラートを廻った。
ベラートから国境を越えてマケドニアオフリドへ。オフリド、そうして首都のスコピエを観光。
帰路はスコピエからイスタンブール経由で成田空港に帰ってきた。
いずれ旅の記録はまとめるとして、以下はアルバニアについての所感。
一九七0年前後、当時アルバニアは、毎年国連総会に、台湾政府ではなくて中華人民共和国招請すべきだというアルバニア決議案を提出していた。わたしがこの国を知ったきっかけはこの決議案で、そのころはソ連ともユーゴスラビアとも対立する中国寄りの社会主義国だった。外交とは別に、内政は恐怖の社会主義独裁国家という印象で、やがて毛沢東が亡くなり、訒小平が改革解放路線を採ると、中国とも対立し、中国の経済支援は途絶えた。わたしは唖然とし、そこらあたりでアルバニアへの関心は消えた。
そのアルバニアはいま資本主義経済と複数政党制のデモクラシーのもとにあり、EUへの参加候補国としてスタンバイ状態にある。そしてオスマン帝国に抵抗した英雄スカンデルベグ(1405〜1468)がナショナリズムのシンボルとなっている。
まこと、水の流れと人の世の変化極まりない姿を目の当たりにする思いだ。
首都はティラナ、わたしはその語感が、ブルガリアの首都ソフィアとともに好きだ。