「スリー・ビルボード」

ミズーリ州エビングという架空の田舎町。
何者かに強姦、殺害された娘の母親ミルドレッド(フランシス・マクドーマンド)が、犯人が捕まらないのに業を煮やし、町はずれにある長年広告主もないまま放置されている三枚の巨大な看板を借り受け、「レイプされて殺された」「犯人逮捕はまだなのか」「どうしてだ?ウィロビー署長」と大書した。
署長のウィロビー(ウッディ・ハレルソン)は温厚で信頼が厚い人物だ。署には何かにつけて鉄拳を繰り出し、差別的言辞を吐くディクソン巡査(サム・ロックウェル)というやっかい者がいるが、かれでさえ署長には信服している。
無念やるかたない気持はそれとして署員たちは看板に怒った。住民の多くも、いくらなんでもやり過ぎ、無用の波風を立てるなと激しく反撥した。ディクソン巡査など、ぶっ殺すぞといわんばかりのえげつなさでミルドレッドと衝突する。もちろん彼女も負けてはいない。広告に憤慨した歯科医は彼女に麻酔なしで治療しようとして、反対に股間を蹴り上げられる。

そんななかウェルビー署長はミルドレッドに会い、鋭意捜査中であることと自身が膵臓がんの末期にあることを告げる。「死んでから看板出しても意味がない」とミルドレッドはにべもない。
ここで、どうやらこの作品は黒澤明監督「生きる」の主人公渡邊勘治の警察署長バージョンと見通しをつけた。「生きる」では事なかれ主義と無気力に終始してきた市役所の市民課長ががんを患ったのを機に最期の力を傾注して住民が長年にわたり陳情してきた遊園地の設置を実現しようと努力する、いっぽうこちらは、余命いくばくもない警察署長が、突然の悲劇に襲われた母親の切なる願いと意向を汲んで犯人捜しに力を振り絞るというわけだ。
けれど、これ、とんでもない見当はずれなんです。時間が進むとともに、こっちの方向へ行くのかと予想すると軽くいなされ、気がつくと梯子ははずされている。初手から思い違いをやらかしたどんくさい日本のわたしは予想が裏切られる驚きと快感に包まれながらスクリーンを見つめた。
巨大看板が波紋を広げるなか、平凡な町を蔽っていた表面の層をめくってみると、そこはほとんど法秩序以前、反則ありの状態だった。このなかで人々は交錯し、暴力、差別、放火、嫌がらせ、脅し、からかいなどが連鎖する。それでいて愛と希望の蒸発はない。はじめ劇作家としてデビューしたマーティン・マクドナー監督(もちろん脚本も)のたいへんな力わざだ。
円満、穏便などくそくらえ、空気を読むとか読めないなど意に介さず事態に立ち向かうミルドレッド。そのためのユニフォームとみえるバンダナとつなぎ姿がだんだんと魅力を放つ。空気を読まない、読めない点ではディクソン巡査だってひけをとらない。二人の突っ張り合いと行方をおたのしみあれ。
(二月二日TOHOシネマズ上野)