正岡子規の句集に「大きさも知らず鯨の二三寸」という句があった。

なるほど二三寸の鯨肉からは全体の大きさはわからない。若い方のなかには二三寸どころか鯨肉を口にしたことのない人が相当数いらっしゃるだろう。

わたしが小学生だった昭和三十年代、ときどき母が「きょうはおかねがないから鯨のすき焼き」といっていたのをおぼえている。大学生だった昭和四十年代にはおかねがなくなるとよく新宿の鯨カツ屋へ行った。振り返るとずいぶん贅沢な食事だったという気がしないでもない。

子規の句にもどると、迂闊なことにわたしはこの句で鯨が冬の季語だとはじめて知った。歳時記には、日本の海域を鯨は餌を追って回遊する、とくに冬季は活動が活発になるとある。そういえば鯨を捕る「いさなとり」は万葉集で親しい、海、浜、灘にかかる枕詞だった。

漱石にも「凩に鯨潮吹く平戸かな」という鯨の句がある。

一句にふたつの季語はよくないとされるが、漱石は「現時の小説及び文章に付いて」で「文章は字を知るよりは寧ろ物を観察することに帰着する。それからまた物を如何に感ずるかに帰着する」と述べて観察と感ずることの大切さを説いていて、ふたつの季語など気にも留めていなかっただろう。

半藤一利氏はその「感ずる」が迷子(まご)つく、馬穴(ばけつ)、寸断々々(ずたずた)、八釜しい(やかましい)、瓦落多(がらくた)など漱石独特の自由奔放な当て字に結び付いたという。「凩に鯨」はそれらの当て字に通じているようである。

折しもきょうは十二月二十六日。政府はIWC国際捕鯨委員会)からの脱退を表明すると報道されている。資源保護に留意した商業捕鯨はあっていいのではないかな。

わたしはタトゥーが大嫌いだが、その記号性は国、民族により異なるから目くじら立てない。

おなじ理由により、日本の食文化にたいする諸外国の過度な干渉には反対する。