断捨離

幕末、薩摩藩が贋金を鋳造していたのはよく知られており、一説によるとその額は二百九十万両にものぼったとか。薩摩藩と縁の深い佐土原藩も倒幕のための贋金づくりに精を出していた。
佐土原藩については岩井克人ヴェニスの商人資本論』にある「ホンモノのお金の作り方」でとりあげられていて、それによると同藩はすこぶる精妙な作りの二分判金をおよそ二百万両も製造しており、このため幕末から維新にかけての通貨制度は大きく混乱した。ニセガネとはホンモノに似せる「似せ」ガネである。
佐土原藩が大量の贋金を市中に流したことで幕府は慌てた。いま日本銀行は二パーセントを目標とするインフレ・ターゲットを政策に掲げているが、幕府がうろたえたのは想定外の貨幣の流通、ターゲットのないインフレであり、歴史をさかのぼるとどうやらインフレと贋金とは無縁の話ではない。
インフレにより保有する貨幣の価値は下がる。大量の贋金の流通もインフレターゲットの目標を高めて実現した際もおなじ事態となる。
日銀が期待するインフレは近い将来に所得の増大をもたらすとの期待があるが年金生活者には無縁の話である。
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初夏の一日、旧古河庭園を散策した。自宅から弥生坂を上り本郷通りに出て駒込まであるき北区の側に折れるとすぐのところにある。
明治二十年代、ここは陸奥宗光の別宅だった。その後、陸奥の次男潤吉が古川市兵衛の養子となったため古川家に所有が移った。
いまの洋館、西洋庭園、日本庭園からなるつくりに整えられたのは一九一九年(大正八年)のことで当主は古川財閥の古川虎之助男爵だった。
現在は国有財産となっていて、東京都が借り受けて一般公開している。入園料一般百五十円にたいし六十五歳以上の七十円はありがたい。

バラの季節は過ぎていたが、それでも二、三の種類が咲いていて目をたのしませてくれた。随所にユリが咲いており、白いユリ(マドンナリリー)は聖母マリアの象徴、ただしわたしの頭にはじめ浮かんだのは「立てば芍薬、坐れば牡丹、歩く姿は百合の花」という美女の形容だった。日本人ですねえ。

庭園でのんびりとしているうちに、ふと自分よりすこし年下の友人諸賢が心に浮かんだ。
毎年三月の後半には人事異動の発表がある。ことしもいつものように異動表で知友の動向をみたが、昇任や転出のところに知る名前はすくなく、反比例して退職の欄は知った名前でにぎわっていた。しかもそこで終わらずにおなじ名前ともう一度再任用の欄でお目にかかることが多くなった。その数が増えているのは六十代の元気と年金制度の苦しさを示している。
定年退職できたからこの庭園でゆるやかな時間を過ごしているけれど何年か遅く生まれていればそうはゆかなっかったかもしれない。その必要がなかったから、なんとか逃げ切ったと考えるようにしている。ほんとうに逃げ切ったかどうかは棺を蓋うまでわからないとしても。
先日読んだ高村薫『作家的覚書』(岩波新書)に「思えば、七十代以上の日本人は敗戦直後の窮乏を知っているが、七十年前のそれは未来に向かって開けていたのに対して、今日の貧困は先々よくなってゆく可能性のない、抜け出すのが極めて難しい牢獄である」とあった。
いまわたしは下流老人の予備軍にいる。高村さんの言葉をふまえると、下流予備軍を抜け出して上流に向かいたいなどと贅沢はいわないけれどせめて予備軍のまま逃げ切りを図りたい。そうして身勝手ながらゴールラインはできるだけ遠くにあってほしいと願う。
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ここ一年でずいぶん本が減った。冊数の多いものでいえば斎藤茂吉久保田万太郎水上滝太郎吉井勇石川淳森銑三木村荘八といった人たちの全集、選集や『日本国語大辞典』『カサノヴァ回想録』『千夜一夜物語』などを手放した。公立高校の社会科の教員だったから、そのうち日本史も教えるだろうと役に立ちそうな本をときどき買っておいたのに一度も担当しないまま退職を迎えてしまいその種の本も売り払った。日本史を担当してみたらといわれたことがなく、自分から申し出る性格でもなかったから、いまさら悔やんでも詮ないのだが、生徒にはこのほうがよかっただろう。
CDも激減した。DVDはまだそれなりにあるが見終えると処分するのを原則とした。
あれも読みたい、これも読みたい、そのうち読めるはず、いま理解はむつかしいが、やがて十全の理解が得られる・・・・・・なんとむやみなことを考えていたのだろう。
「人間というものは、すでに持っている物に加えて、さらに新しい物が獲得できるという保証があるときでないと、物を持っているという安心感にひたれない」とはマキャヴェリの名言で、このような執着が薄らぎ、身の程を知り、新しい物の獲得に恬淡となったときわたしはすでに前期高齢者となっていた。
あれも読みたい、これも読みたいといった意識がようやく遠のき、それほどは読めないし、理解力をも欠いていると実感するのにずいぶんと時間がかかった。迂闊な話ではあるが、わかっていながら真実の直視を避けていたようでもある。愛書、蔵書マインドが低下したのか、あるいはもとから真の本好きではなかったのかもしれない。ものの尊きにあらず、その働きが尊いとの福沢諭吉に倣えば本を使いこなせなかった自分の学力を嘆くほかない。というわけで相当の冊数を処分したが、まだ身の程よりも書架にある本は多い。
作家で性風俗研究家だった高橋鉄は一九七一年に六十四歳で亡くなったとき、蒐集した膨大な性書の文献が残されたが、そのめぼしいものは借金のかたとして散逸し、残ったものも家が放火され焼失してしまったそうだ。この哀話の轍を踏まないよう、それ程のご縁はないと判断した本は早々に処分し、頂戴した些少の金を別のものに振り向けて有効に活用しようと、本を売ったお金で好きなウィスキーを何本か買い、空いた本棚にならべてみたところなかなかよい眺めである。本という絶えず増殖し、あふれ出そうとする厄介なものに囲まれ、向かい合う、いわば断捨離とは正反対の生き方をつらぬくには自分はひ弱過ぎると苦笑いしながら琥珀色の液体をグラスに注いだ。
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「旅寝してみしやうき世の煤はらひ」(松尾芭蕉笈の小文』)
旅寝するわが身にたいし世間は自宅の煤払いに精を出している。この句で芭蕉は、定住の生活についてまわるあれやこれやと対比して旅寝の身軽さを詠んだ。
旅寝の身軽さにはあこがれても、わたしがどうにかできるのは煤払いの励行しかない。その成果は顕著で、この春に訪ねて来た子供から、ずいぶん本がすくなくなったとおほめにあずかった。
玉村豊男『隠居志願』(東京書籍)によるとワイン用のブドウの樹は虫に食われたり病気になったりして弱るといち早く葉を赤くして休眠態勢に入ろうとするそうだ。早く葉を落とし身軽になって生存を図るわけだ。
煤はらいで身軽になるのもこれに通じていて玉村氏がいうように「自分の身から葉を落とすのは、残された体力を温存して、苦境を乗り切ろうとする知恵だろう。だとすれば、隠居老人も見習わなくてはなるまい」。
つまりはむやみに増えた本やモノを処分して身軽になるのは老骨の自己保存の一法なのだ。再読はしないだろう、これからも読めそうにないといった本を蓄えるより、買い取ってもらった金で旨い酒を呑むのがよいと思いさだめた。
そうしていてもやっぱり本は買いますな。ダンボールへ詰めるいっぽうで、以前から気になっていた池波正太郎鬼平犯科帳』全二十四巻を電子本だから場所は取らないといいわけしながら入手した。
政治学者の京極純一先生が鬼平のファンで全巻読破していると、そのむかしお聞きして以来いつか読みたいと思っていた。先生からはユングを読むようにお勧めいただいたのにはかばかしくなく、せめて鬼平の読破でこれに代えたい。池波正太郎はエッセイを読んだことはあるが、小説はないのでたのしみだ。
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宅急便配送の予定はないのに宅配ボックスに何か届いていて、開けると「ハウス・オブ・カード」のTシャツだった。写真はケヴィン・スペイシー扮する米国大統領フランシス・アンダーウッド氏の陣営が再選を期すにあたっての選挙で用いたTシャツで、すっかり忘れていたが二三か月前イマジカBSがシーズン3を放送するに際してのプレゼントに応募していたのだった。

まだ完結してないけれど、ケヴィン・スペイシーロビン・ライト主演「ハウス・オブ・カード」はわたしがこれまでみたテレビドラマでいちばん面白い、すくなくともワン・オブ・ベストの作品で、Tシャツをいただいたのはファンとしてはまことにうれしく、あるフランスの詩人の「人生はときどき美しい」という言葉を思い出した。この余勢で東京マラソンの抽選も当たってほしいものだ。
たまたまこの日は新宿バルト9で「ベイビー・ドライバー」をみる予定にしてあった。時間たっぷりの無職渡世は人出の多い週末、祝祭日はできるだけ繁華街を避けるようにしているがずいぶんと評判がよくて公開初日の土曜日に足を運んだ。
エドガー・ライト監督の新作は斬新な音楽をベースにしたミュージカル、犯罪者の逃走を手助けする「逃がし屋」ベイビーのラブストーリーまた冒険譚、そうしてこれらの要素がみごとにクロスオーバーした快作で、映画の新しい地平に連れて行ってもらった気持だった。もっとも音楽はわたしのような視野が狭く、心の働きの鈍い、硬直した者にはいささか斬新過ぎの感はある。
なおベイビー(アンセル・エルゴート)のボスを演じたのがケヴィン・スペイシーで、Tシャツともどもうれしいご縁のある一日となった。