「ヒトラーへの285枚の葉書」

一九四0年六月、ベルリンはフランスへの勝利に沸き返っていた。とはいえ戦争だから勝者にも犠牲者は出る。陶酔と喧噪のなか職工のオットー(ブレンダン・グリーン)と妻アンナ(エマ・トンプソン)のもとに最愛の息子ハンスが戦死したとの報せが届く。
訃報を胸に悲しみにくれていたある日、オットーはやむにやまれずヒトラーを批判する言葉を葉書に綴り、ひそかに街中に置いた。見つかれば死刑確実の、ささやかながら絶望的な抵抗はまもなくアンナの知るところとなり、彼女も協力して葉書はおよそ二年間で二百八十五枚に達した。一人息子を戦争で亡くした辛さと絶望を二人はこういう形でしか表出するほかなかった。論理や説得よりも反戦と嘆きの感情で綴られた短い文章だった。
市民の通報で回収された葉書を手がかりにゲシュタポのエッシャリヒ警部(ダニエル・ブリュール)が捜査にあたるが、葉書と捜査を往還するうちに警部は上層部の理不尽と無慈悲に疑問を覚えるようになる。そして捜査が終了したとき彼は回収された二百六十七枚を前に「(回収された)全部の葉書を読んだのはおれだけだ」とつぶやく。ナチス体制への不信が込められた言葉であり、葉書は少なくともゲシュタポの警部の心を動かしていたのである。
ナチスの支配のもと、たった二人で覚悟を決めて繰り返す反抗とかれらに忍び寄るゲシュタポの捜査。セピア色を基調とするかつてのベルリンを舞台とする実話に基づく物語はサスペンス作品としても迫力がある。

原題Alone in Berlin。同名の原作はドイツ人作家ハンス・ファラダゲシュタポの文書記録を基に終戦直後に書き上げた作品で、これが作家の遺作となった。對馬達夫『ヒトラーに抵抗した人々』(中公新書)によると、ナチス支配下での抵抗について、ソ連は広範な人民に依拠していないと否定的評価を下し、西側諸国はドイツの悪辣をアピールするのに邪魔になると無視した。いかなる組織にも所属していない労働者階級の夫婦がペンと葉書だけを用いて繰り返した行動がどのような扱いを受けたかはおのずと明らかだろう。
また戦後のドイツにおいてもヒトラーへの抵抗者及びその家族、関係者は、総統への宣誓を破り、戦時下に利敵行為をした者として批判を受けやすかった。對馬前掲書には、父親がナチスにより処刑された娘が、戦後になって、通学途中に電車の運転士から「父さんは戦死したのかい?」と問われ「いいえ、ヒトラーに反対して殺されました」と答えたところ「薄汚い裏切り者の子供め!」と罵倒されたという話が見えている。
オットーとアンナの物語を採りあげ映画化したのは人気俳優でもあるバンサン・ベレーズ、自身の親族の対ナチス体験と大叔父が犠牲になったことがペレーズ監督を強く揺り動かした。映画化は順風満帆とはほど遠く、一時は暗礁に乗り上げたが二0一0年に原作の英語版が出版されベストセラーとなったことが追い風になりようやく製作費のめどが立った。東西両陣営から批判もしくは無視され、ドイツ国内でも一部に否定的にとらえられた夫婦の抵抗が甦ったのにはこうした事情があった。
(七月十二日ヒューマントラストシネマ有楽町)