「わたしは、ダニエル・ブレイク」

イングランド北東部ニューカッスルで大工として働くダニエル・ブレイク(デイヴ・ジョーンズ)は心臓を患い、医者から仕事を止められ、国の補助を受けようとしたが行政の不親切と複雑な制度のためにどうしてよいか困惑するばかりだ。
補助の申請にお役所を訪れると手書きはだめと受け付けてくれない。コンピューターは使ったことがなく、まずはパソコンの講習会に参加してはじめてマウスを手にしたものの難渋することはなはだしく、たまたま知り合った二人の子供をもつシングルマザーも似たような事情にある。
一歩まちがえば薄っぺらな告発型のドラマになりそうな素材だが、ケン・ローチ監督はブレイク氏の日常をリアルに、丹念に、ユーモアを交えて撮ることで観る者を感情移入へと誘うとともに他人事とは思えない気持にさせる。同監督の良心と揺るぎない信念と半世紀にわたる映画作りの職人技とがイギリスの中下層の人たちの喜怒哀楽を描いた秀作を生んだ。
今は昔、中学校の社会科の授業で、イギリスの社会福祉制度について「ゆりかごから墓場」までの保障と習った。やがて社会保障制度の充実や基幹産業の国有化が国民負担の増加や勤労意欲の低下さらには経済の停滞を生んでいるとして「英国病」が喧伝されるようになった。反対に当時もてはやされたのがわが日本であり、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」なんだと鼻高々であった。
そうしたなか一九七九年サッチャー政権が誕生すると国営事業の見直し、民営化、税制改革、規制緩和の推進等が行われた結果、経済の安定は図られた反面で所得格差は大きくなり貧困層は増大した。その延長線上にダニエル・ブレイクがいる。

映画を観たあと珈琲を飲みながら退職後の生活についてあれこれ思いをめぐらせた。そう、「わたしは、ダニエル・ブレイク」は他人事ではなく、固有名詞を置き換えればブレイク氏の抱える問題は即わたしの生活に通ずる。
「なれや知る都は野辺の夕ひばりあがるをみても落つる涙は」
阿波の守護・細川成之に仕え、八代将軍足利義政の右筆(公私の文書作成にあたる)をつとめた飯尾常房(いのおつねふさ)が詠んだ歌である。
二か月毎の老齢基礎年金から介護保険料と国民健康保険、住民税が天引きされると残りはおよそ五割、前期高齢者となり夕空に舞い上がる雲雀にけっこうな額の税金、保険料が重なる。
こんなときこそ火事場の馬鹿力、窮鼠猫を嚙むのたとえもあるではないかと思うものの、年金収入頼みの無職渡世は生来不器用でどんくさく、せいぜい支出を抑え、節約に努めるしかない。三島由紀夫によるとケチは紳士のたしなみだとか。わたしだって紳士のはしくれだもの、なんとかなるはずだ。自己評価では退職直後と比較するとずいぶん節約上手になった気がしているが往復葉書の返信を別の宛先用とした永井荷風先生の域に達するのはまだまだだ。
それにしても経済に静止、安定は求むべくもなく、現在以上に厳しい局面も想定しておかなくてはならず、折にふれ、ない智恵をしぼりつつ窮したときの方策を考えている。
退職を機に遺言を書いた。なかに、生き恥をさらしたうえに死にざまを他人様に見られるなんて絶対お断り!葬儀は無宗教家族葬に限る、周忌行事は一切不要と記した。そのとき経済的理由は考えになかったが、いまになってこのほうが少しでも金を遺すのに都合がよさそうだと知った。先日読んだ週刊誌によれば火葬場で簡便に済ます直葬というのがブームだとか。皆さまよく考えていらっしゃる。見習わなくては。
(三月二十四日ヒューマントラストシネマ有楽町)