『救出への道 シンドラーのリスト・真実の歴史』

ドイツ人実業家オスカー・シンドラー強制収容所にいた千二百人を数えるユダヤ人を自身の工場に雇用することでナチスの虐殺から救った人物として知られる。
一九四五年五月その努力がドイツの無条件降伏決定によりようやく実を結んだときシンドラーは囚人たちを前にスピーチを行った。スピーチがあると知ったとき、即座に速記のできる二人の女の囚人が速記用具を取りに行き、その内容はいまに残されている。
「ドイツの無条件降伏が、つい昨日、宣告されたばかりだ。六年間の残酷な人間どうしの殺し合いのあと、犠牲者たちの死が悼まれ、そしていま、ヨーロッパは平和と秩序を取り戻そうとしている」とはじまる話のなかでシンドラーは「きみたちが今日まで生き残れたのを、わたしに感謝することはない。きみたちを絶滅から救うために、日夜努力をしてくれたきみたちの仲間に感謝すべきだ。とくにクラクフにいた頃、いつもきみたちのことを考え、心配して、絶えず死に直面していた、怖れを知らないシュテルンやペンパー、そのほか何人かの仲間に感謝したまえ。われわれの名誉がかかっている今、心して秩序を保つのがわれわれの義務だ。きみたちにお願いする。たとえ仲間うちであっても、人間らしい正しいおこないを踏みはずすようなことはしないでほしい。ここでわたしは、これまで自分を犠牲にしてわたしの仕事に個人的に協力してくれた人たちに感謝したい」と語った。(トマス・キニーリー『シンドラーズ・リスト』(幾野宏訳、新潮文庫一九八九年、原著は一九八二年刊)
ドイツ敗戦時のシンドラーの思いを留めておきたくて長い引用となったが、そのうえでかれが感謝とともに口にした二人の名前、シュテルンとペンパーに注目してほしい。
イツァーク・シュテルンは、クラクフシンドラーが買い取った琺瑯容器工場の経営を任されていたユダヤ人会計士で、できる限り多くのユダヤ人を雇い入れることでシンドラーとともにユダヤ人救出に尽力した。映画「シンドラーのリスト」ではベン・キングスレーが演じていて、作中の人物像はもう一人のペンパーをも念頭において描かれている。

ミーテク・ペンパーは本書『救出への道 シンドラーのリスト・真実の歴史』(下村由一訳、大月書店二00七年、原著は二00五年刊)の著者であり、映画製作ではスティーブン・スピルバーグ監督に協力した。
彼は「クラクフの屠殺人」と呼ばれたクラクフ・プワシュフ収容所長アーモン・ゲート付きの書記兼速記者を務めたユダヤ人であり、立場上得た貴重な情報をシンドラーにもたらし、工場の存続すなわちユダヤ人の雇用と生存を図った。収容所長の書記兼速記者をユダヤ人が務めるのはいくら速記技術とともにポーランド語とドイツ語に長けていても本来はありえない事例でほかにはない。
シンドラーのスピーチにあるペンパーへの言及は本書の「プワシュフ収容所時代の一九四三年春から一九四四年秋まで、私は密接にシンドラーに協力しました。それができたのは、私がアーモン・ゲートに強いられて特別の立場にいたおかげでした。収容所司令事務室からの私の内部情報がなかったら、事の成り行きは大きく変わっていたかもしれません」という箇所と対応する。
ユダヤ強制収容所には絶滅を期した絶滅収容所と安価な奴隷労働力を収容する強制労働収容所があり、ペンパーによると後者のなかには少数の優先順位の高い収容所があった。
「公的な交換文書を読んでいるうちに、ドイツの収容所体制のなかで二0ほどある強制収容所が、食料・物資の供給および維持存続に関して最高の優先順位をもっていることを知ったのです。私たちの強制労働収容所をそんな強制収容所に変えてしまえば、ひょっとするとその分長く生きているチャンスがあるかもしれないというのが、私の熟慮の結果でした。私の推測は結局当たっていたのでした」。
はじめシンドラーの工場は琺瑯容器を生産していたが、ドイツにとって戦局困難ななか強制収容所の価値を高めるためには生産物の転換が必要であり、そのため工場は砲弾部品を作る場として、チェコスロバキア(現在のチェコ)、ズデーデン地方のブリンリッツに移転し、リニューアルされた。(生産品は意図して粗悪なものばかり作られた)
いずれもシンドラーペンパーとの連携により実現したもので、シンドラーペンパーのもたらした情報をもとに、その豊富な人脈、金脈を駆使しながら、アーモン・ゲート所長の目をごまかし、賄賂を贈り、籠絡したのだった。
ナチスユダヤ人を殲滅するのは既定の方針ではあったが、いっぽうでユダヤ人は安価な奴隷労働力だったから戦争遂行のためには最後まで搾取し尽くすのが経済的には合理的な判断となる。シンドラーはそこを逆手にとってユダヤ人の救出を図った。そのための重大情報を届けたのがペンパーだった。
ユダヤ人にとってシンドラーの工場で働くこと、つまり名簿掲載(リスト)は生きのびる希望を意味していた。と同時にそれはひとつの策略(リスト、こちらはドイツ語)で、シンドラーのリストは英語とドイツ語にまたがる名簿と策略という両義性を有していた。
一九三九年ナチスポーランドに侵攻した。このとき一九二0年クラクフで生まれたミーテク・ペンパー(二0一一年歿)という一人の大学生の運命は激変した。強制労働に連行され、ゲットーに閉じ込められ、さらに強制収容所に送り込まれた。そうしてアーモン・ゲートのもとで働くという立場を得てシンドラーに協力するようになった。その知性と洞察力は上の強制収容所についての推測からも察せられるだろう。戦後は、生きのびたことでナチス戦犯の裁判において証人ならびに通訳を務めた。それらの経過を詳述したのが『救出への道 シンドラーのリスト・真実の歴史』である。
トマス・キニーリー『シンドラーズ・リスト』(一九八二年刊)は歴史の地底に埋もれていたオスカー・シンドラーによるユダヤ人救出の史実を発掘し、その人物像、来歴、救出の過程を描いた優れたノンフィクション・ノベル、それにたいし本書は強制収容所で死の危険に直面しながらシンドラーに協力した当事者による貴重なドキュメントであり、二冊をならべるとシンドラーペンパーとの協力の記念碑として見えてくる。