「心のにごり」(関東大震災の文学誌 其ノ十九)

「元暦二年のころ、大地震(おほなゐ)ふること侍りき。そのさまよのつねならず。山くづれて川を埋み、海かたぶきて陸をひたせり。土さけて水わきあがり、いはほわれて谷にまろび入り、なぎさこぐふねは浪にたゞよひ、道ゆく駒は足のたちどをまどはせり。いはむや都のほとりには、在々所々堂舍廟塔、一つとして全からず」。
上は『方丈記』にある元暦二年七月九日(一一八五年八月十三日)午後に発生した大地震(元暦地震あるいはこれを機に文治に改元されたので文治地震と呼ばれる)の記事で、このあと鴨長明は大地震に遭って「すなはち人皆あぢきなきことを述べて、いさゝか心のにごりもうすらぐと見えしほどに、月日かさなり年越えしかば、後は言の葉にかけて、いひ出づる人だになし」(そのときは、人皆、ものごとの空しいことを言って、少しは心のにごりも薄らぐかと思われたが、月日が重なり年数が経てば言葉に出して地震のことなど言う人さえいなくなってしまった」と人心の変化に言及している。

同様のことがらが寺田寅彦津波と人間」にあり、三陸災害地を視察してきた人の話として、ある地方では明治二十九年の災害記念碑を建てたが、いまでは二つに折れて倒れたままになってころがっており碑文などはまったく読めない、また別の地方では同様の碑を通行人の多い目につくところに建てたものの新道が別にできると旧道はさびれて碑は見捨てられたままになっているとある。
喉元過ぎればたちまち熱さを忘れ、そのうちに鬱陶しいことはさておいて世の中気楽に、厚かましくといった気持が強くなる。権力者の側にしても総じて早く忘れてもらったほうが都合がよい。地震は後回しにしてまずは自身の欲望、執心というわけで『方丈記』にある「心のにごり」はなかなか薄らぐものではなく、当然後代においても繰り返される。
寺田寅彦の言うように「人間も何度同じ災害に遭っても決して利口にならぬものであることは歴史が証明する。東京市民と江戸町人と比べると、少なくも火事に対しては今の方がだいぶ退歩している。そうして昔と同等以上の愚を繰り返しているのである」(「時事雑感」)。
こうして鴨長明の言う「心のにごり」は天変地異に際しての処し方についての観察と考察であり、「人間も何度同じ災害に遭っても決して利口にならぬもの」の原型もしくは「古層」(丸山眞男)であり、この延長線上に東日本大震災で避難した人々がもといた地に帰れないのは自己責任だとか、まだ東北でよかったとか言い放つ政治家がいる。
ならば「心のにごり」の度合をできるだけ少なくするにはどうすればよいのだろう。
寺田寅彦は「二十世紀の文明という空虚な名をたのんで、安政の昔の経験を馬鹿にした東京は大正十二年の地震で焼き払われた」ことに鑑み「人間がもう少し過去の記録を忘れないように努力するより外はない」(「津波と人間」)としたうえで学校教育の重要性と、政権においては少なくとも国防問題とおなじ程度に自然災害対策の重要性をわきまえておかなくてはならないと言う。
おなじく鴨長明の提起した問題を考えた人に和辻哲郎がいて関東大震災直後に書いた「地異印象記」(大正十二年九月)で所見を述べている。
いくら地震への備えを喚起されても人々はなかなか耳を傾けようとしない。どうしてか。それは「人間は自分の欲せぬことを信じたがらぬものだからである。死は人間の避くべからざる運命だと承知しながらも我々の多くは死が自分に縁遠いものであるかのような気持ちで日々の生を送り、ある日死に面して愕然と驚くまでは死に備えるということをしない。それと同じように、百年に一度というふうな異変に対しては、人々はできるだけそれを考えまいとする態度をとる。在来の地震から帰納せられた学説は、この種の信じたがらぬものを信じさせるほどの力は持たない」。
ここで思い出されるのは、多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていないとするユリウス・カエサルの故智であり、これを拡大してゆくと和辻の言う「地震の予言に耳を傾けるほど人間が聡明」ではないところに行き着く。
その克服のために和辻は、欠陥があればそれを取り除くことと「相互扶助の精神に基づく最善の予防法を講ずべき」ことを不可欠としなければならないと主張する。また「相互扶助の精神」の対極には放火略奪の流言から発した朝鮮人の虐殺があり、和辻はこれを「社会的大地震」のひとつとしている。大地震は地だけでなく人を、政治、社会を揺すぶる。
吉村昭関東大震災』によると、凶器をかざして食糧、酒類、金銭等をおどしとって歩いた横浜の無頼者集団がいて、これが他の不良分子に影響し、集団で民家に押し入り略奪行為を繰り返し、不穏な空気の中で朝鮮人が放火したといった風説が流れ、多くの市民がその風説、憶測に同調した、つまり横浜の日本人無頼者集団の犯行が庶民により朝鮮人のものとして解釈されたのである。
大震災という自然災害は「社会的大地震」を生じさせ、社会の弱点を露わにする。自警団による朝鮮人の虐殺は当時の日本社会の最大の弱点、少なくともそのひとつであった。
地震、大火、流言において我々が今経験したごときことを、再び社会的大地震において経験するならば、その災禍はとうてい今回のごとき局部的なものには留まらないであろう」。
和辻の推測は原発問題を照らし、鴨長明の見た「心のにごり」は関東大震災における朝鮮人虐殺や先日辞任した復興担当大臣の不見識な放言にまで及ぶ。