時代を透視する力

ことしの一月ポーランドを旅したのを機に、この国とスターリニズムとの関連を知りたくてひさしぶりに林達夫「『旅順陥落』」(平凡社ライブラリー、初出は「新潮」一九五0年十月号)を読んだ。さいしょに読んだのは二十代のはじめで、それからいままで何度となく手にした。
思想家を定義するなんてわたしの手に負えないが、すくなくともその生きた時代を透視する力は必須のひとつと考える。人びとがあとから振り返って「ああ、そういうことだったのか」と気づく、透視力とはその謂にほかならない。その点で林達夫はまぎれもなく近代日本の思想家の一人である。
「『旅順陥落』」で著者は日露戦争をめぐるレーニンスターリンの所論を採りあげ、両者の相違を拡大して見せた。
レーニンは、日本のブルジョアジー日露戦争に勝利したが、敗北したのはロシア人民ではなくツァーリズムであり、これを機にロシア革命の好機がもたらされたと論じた。革命に向けた政治的リアリズムからするとレーニンにとって日本はツァーリズムを倒した友軍であった。
そのうえで着目したのが一九四五年八月のソ連の対日戦争参加をめぐるスターリンの言説だった。ここでスターリンソ連軍の満洲侵攻と赤軍将兵の駐屯はかつて日露戦争で受けた国民的屈辱の仇をそそぐ行為であるとした。
スターリンの戦勝演説には「日露戦争におけるロシアの敗北はロシア人の意識に苦痛な記憶を遺した。それはわれわれの歴史に汚点を残したのである」「われわれ古い世代はこの汚点を四十年のあいだ取り除こうとして待っていた。この日がついにやってきた。今日、日本は敗北を認め、無条件降伏の文書に署名した」とある。(長谷川毅『暗闘 スターリントルーマンと日本降伏』中公文庫より)
日露戦争で敗北したのはツアーリズムであり、このことが革命の大きな要因となったと論じたレーニンにたいし、スターリン日露戦争の敗北を「苦痛な記憶」「歴史に汚点を残した」ものとした。こうしてレーニンの正統的後継者とされたスターリンは林にとって専制主義とツァーリズムの後継者であり簒奪者であった。
「『旅順陥落』」の六年前、一九四四年七月戦局の好転をうけてポーランド地下軍がようやく同国駐留のドイツ軍に蜂起を企てた。はじめは順調と見えたが、ともにナチスと戦っているはずのソ連軍の陰険狡猾な行動によりポーランド軍は苦汁を嘗めさせられた。ソ連軍がワルシャワにいるドイツ軍を攻撃したのは初めだけ、ポーズと言ってよいほどで、まもなくソ連ポーランドへの支援を事実上拒否した。英米が飛行機で援助物資を運ぼうとすると、ワルシャワの盲目的な冒険とは関わりを持ちたくないからと、物資を運んだあとのソビエト領着陸を拒否したのである。
この動きについてウィンストン・チャーチルは『第二次世界大戦』(佐藤亮一訳、河出文庫)に、ソ連軍はポーランド国民の救援に向かいつつあると見せかけながら「彼らは非共産主義ポーランド国民が徹底的に亡ぼされること」を期待していたと書いている。実質的にはソ連の裏切りであり、ワルシャワの戦いにおいてはポーランド地下軍四万のうち一万五千人が仆れた。
「『旅順陥落』」が執筆された時点でこの事実は著者に伝わっていなかっただろう。しかし、林にとってこのソ連の行動は自明の理であった。当時はさかんにスターリンの神格化がされていた時期にあたるが、このときこの思想家はすでにスターリニズムの本質に迫っていて、多くが「ああ、そういうことだったのか」と気づいたのはだいぶんあとになってからであった。

時代を透視するといえば荻生徂徠『政談』巻三に、幕府と朝廷との関係にけじめをつけておかないと将来憂慮すべきこととなるかもしれないとのくだりがある。天下の諸大名は将軍の家来であるのに宰相とか中将、少将といった官位は京都の朝廷から頂戴しており、なかには朝廷がほんとうの主君だと内心思っている者や、幕府の威勢を畏れてとりあえずその家来になっているだけと考えている不心得な大名がいないとも限らないと指摘したうえで徂徠はこれを「安心なりがたき筋」としたのである。
大政奉還論や公武合体論が沸騰した黒船前後の政局を予見しているようで、元禄の世に幕府のためにこんなことを考えている徂徠は凄いの一言に尽きるし、自身の生きる時代を透視する力は後代の問題を指摘する力に通じている。
いまわたしが気になっている人にエリック・ホッハーがいて、沖仲士をしながら哲学と政治学の研究に従事した知的カリスマは「未成年の時代」において、無為を余儀なくされ、自分が有用で価値があるという感覚を奪われてしまうところに、過激主義や政治的、民族的不寛容が受け入れられやすくなる基盤があると述べている。およそ半世紀前のこの言説は現代の不寛容で過激な集団の出現を見据えている。