『三国志』から『プレイバック』へ

三国志演義』の世界に浸りたくて吉川英治三国志』を読みはじめた。中学生のとき父がむやみに勧めるのでこの作家の代表作『宮本武蔵』を読んだが修身道徳の教科書みたいでなじめなかった。『三国志』は中国講談の翻案で道徳臭はあるが武蔵ほどではない。
以下同書より。
「運命は皮肉を極む。時の経過に従って起るその皮肉な結果を、俳優自身も知らずに演じているのが、人生の舞台である」「匹夫は玉殿に耐えずとか、生来少し無事でいると、身に病が生じていけません。百姓は鍬と別れると弱くなるそうですが、こなたにも無事安閑は、身の毒ですから」
退職して風邪をひく回数が増えたが、これも「匹夫は玉殿に耐えず」の一例か。
それはともかく吉川英治は『宮本武蔵』よりまえの伝奇小説がよいと聞いたことがある。講談調で道徳を説かれるよりも伝奇のほうがよほど面白そうで、よい機会だから『三国志』が済めば『鳴門秘帖』を読んでみよう。
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吉川英治三国志』はAmazonKindleで巻別仕立ての青空文庫を合本した版が二百円だった。巻ごとだと無料で、年金老人にはありがたいことこの上ない。紙の本は収蔵が難儀だからこれからはできるだけ電子本に親しむようにしたい。
バックライトの付いた電子機器は重さが気になったが、さきごろバックライトのない安い製品を手にしたところ、これが軽くて、蓄電も長持ちして大正解だった。そもそも暗いところで本など読んではいけないのである。
ところで『三国志』を提供してくれた青空文庫の仕組みがどうなっているかはよく知らないけれどかねてより読書推進のための尊い活動に頭の下がる思いがしている。
いまも行われていると思うが、児童生徒に向けた「朝の読書」運動というのがあり文部科学省都道府県教育委員会が積極的に支援していた。けっこうなことなのだが、そこで思い出されるのが青空文庫で、著作権の切れた文学芸術作品を積極的に提供する地道な活動はきわめて貴重で、本来なら国の事業として行うべきことがらであろう。国が学校での読書活動推進を謳うならば、一片の通達で済ますのではなく、まずは青空文庫の爪の垢でも飲んで読書環境のインフラ整備を図るべきである。
いま日本の著作権は作家の死後五十年を限りとするがTPPの交渉結果では七十年に延びる可能性が大きいと指摘されていた。トランプ大統領のTPP交渉からの離脱声明によりひとまず延長の可能性は遠のいた。他のことがらはともかくこの頓挫はめでたい。
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吉川英治三国志』に曹操の部下が主君に管輅なる人物を紹介するくだりがある。なかで管輅が卦を立てた結果を述べていて「気ヲ含ンデスベカラク変ズ。堂宇ニ依ル。雌雄容ヲ以テ、羽翼ヲ舒ベ張ル。コレ燕ノ卵ナリ」云々。
ここで「すべからく」はすべての意味で用いられている。よく見られる誤用である。
吉川『三国志』ははじめ一九三九年(昭和十四年)から四三年までほぼ四年間にわたり新聞に連載され、戦後単行本として刊行された。上の誤用は相当早い時期の事例であろう。以下「じしょ君」というアプリにある語釈。 すべから‐く【須く】 [副]《動詞「す」に推量の助動詞「べし」の付いた「すべし」のク語法から。漢文訓読による語》多くは下に「べし」を伴って、ある事をぜひともしなければならないという気持ちを表す。当然。「学生はすべからく学問を本分とすべきである」。
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先日ポーランドを旅してアウシュビッツ第一強制収容所とビルケナウにある第二収容所を訪れ、ナチスドイツの蛮行の跡をたどった。海外旅行はヨーロッパを第一に考えているがドイツは例外で、ヒトラーを生んだ国へわざわざ行くにも及ぶまいといった気持が強い。
モスクワやペテルブルグには行ったことがある。だからといって左の全体主義ファシズムよりましと考えているわけではない。イタリアは大好き。フランスやイギリスにもナチス派はいたからドイツを避ける理屈はおかしいが感情の動きは否定できない。

アウシュビッツはもうひとつモノヴィッツに第三収容所があったが現存していない。旅行から帰って見た「刑事フォイル」シーズン9「ハイキャスル」でこの第三収容所が取り上げられていた。ドイツとイギリスへ二股かけたイギリスの石油企業が第三収容所に隣接した工場でユダヤ人を酷使しており、戦後それを隠蔽するために策謀をめぐらす。登場人物のひとりが「モノヴィッツアウシュビッツから十キロほど離れていて、この距離を歩かされるためみんな疲れ切って働けなかった。そのためここに収容所を建設した。労賃は親衛隊に支払われ子供までこき使った。みんな垢にまみれシラミだらけだった。働けないと銃殺だ。解放までに一万人が死んだ」と語っていた。
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吉川英治三国志』に云う、戦乱続くなか「救民仁愛を旗として起こったのが劉備玄徳であり、漢朝の名をかりて王威をかざして覇道を行くもの魏の曹操であり、江南の富強と士馬精鋭を蓄えて常に遡上を計るもの建業(現今の南京)の呉侯孫権だった」。これが『三国志演義』の枠組、コンセプトである。
劉備曹操は人物像、イデオロギーの面でも好一対で、これに孫権が絡んで三極対立となるから事態は複雑また面白くなる。龍虎の決戦もよいが、わたしはどちらかというと鼎立の魅力に惹かれる。ただむつかしいのは孫権の扱いで、劉備曹操のように際立つ何かを欠いている。
三国志演義』を基にした小説は中国でも日本でも相当書かれているが孫権の個性化はどんな具合だろう。素人なりに察するに、劉備の軍師となった諸葛孔明に重きを置いたぶん孫権の扱いがいささか疎かになった、この点がうまく行けば三国志の世界はより魅力を増すのではないか。
そんなことを思いながら三週間かけてようやく『三国志』を読み終えた。退職してのち読んだ本としては塩野七生ローマ人の物語』に次ぐ最長記録だ。
そこへ図書館からレイモンド・チャンドラー『プレイバック』(村上春樹訳、早川書房)を確保とのメールが届いた。チャンドラーの遺作のなかにある「しっかりしていなかったら、生きていられない。やさしくなれなかったら、生きている資格がない」(清水俊二訳)の村上新訳が楽しみだ。

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村上春樹訳『プレイバック』読了。人口に膾炙したあのせりふの新訳を引用するのはネタバレになるみたいではばかられる。その代りといってはなんだが訳者あとがきにある「ストレートな翻訳」を挙げておこう。
「冷徹な心なくしては生きてこられなかっただろう。(しかし時に応じて)優しくなれないようなら、生きるには値しない」。
おなじく訳者あとがきに、この作品はレイモンド・チャンドラーが昼間から酒を飲みながら書いた唯一の小説で、そのためか酒を飲むシーンがやたらたくさん出てくるとあったので、お酒のシーンをいくつかチェックしてみた。わたしがこれまでチャンドラーの作品から刺激を受けて飲んだお酒はギムレットだけである。
チェックしたなかに「ボーイ長が私をテーブルまで案内し、キャンドルに火をつけた。ギブソン・ジンをダブルでと私は言った」という箇所があった。ジンは飲んだことはあるが味は思い出せない。ギブソンという銘柄も知らない。ちかく探しに行ってみよう。