「海は燃えている イタリア最南端の小さな島」

ランペドゥーサ島はイタリア最南端の島。シチリアよりも北アフリカに近い。
この島で十二歳の少年サムエレは友だちと手作りのパチンコで遊んだり、船に乗って大人といっしょに網を引いている。ラジオのディスクジョッキーは電話でリクエストを受けるとその曲を探して流す。多くはなつかしい音楽だ。ある老女は家族のために料理に精を出し、丹念にベッドメーキングをしている。
いずれもカメラがとらえた島民の日常生活のひとこまだが、いっぽうで島にはこの二十年のあいだにアフリカ、中東から四十万人の難民が上陸し、とちゅうで一万五千人が溺れて亡くなったと推定されている。島の人口およそ五千五百人に対していま年間五万人を超える難民、移民がやってくる。
ならばここは国際問題の坩堝と化したところかといえばそうではない。すくなくとも表面的には。

島外から派遣された海上保安の職員を除くと難民に関係しているのはひとりの医師だけで、この人は島民を診察するかたわら難民と接し、かれらの死に立ち会う。難民にかかわる唯一の島民で、そのほかに島の人々の日常と難民の悲惨な現実がつながることはない。
この現状についてジャンフランコ・ロージ監督は来日時の会見で「現在、難民移民がランペドゥーサ島へやってきた場合、直接上陸することはなく、海上で保護され夜のうちにセンターに行きます。そのため、島の人々は私たちと同様に難民のことをニュースでしか知りません。その図式はヨーロッパのメタファーのようだと思いました。近いのにコミュニケーションが取れないのです。映画的言語を用いて映画を撮ることで、現実を浮き彫りにしたいと思いました」と語っている。
一年半にわたりランペドゥーサ島に移り住んだ監督の思いは島民と難民の現実を豊かな詩情と衝撃を併せ持つ作品として実を結んだ。
複数の文明が衝突も含めて広い意味で交わるところ、たとえばボスポラス海峡を挟んで大陸間にまたがるイスタンブールや文明の交差点と呼ばれるシチリア島にわたしは魅せられてきたが、それに対しこの映画は、文明の交わりを歴史のロマンとしてのみ見ていてよいのだろうか、スクリーンの現実も文明が交わるひとつの姿なのではないかと、おだやかに、そして力強く問いかける。同時代の文明のまじわりを蒸発させた視線は監督の語る「その図式はヨーロッパのメタファー」にほかならない。
視線をめぐってこんなエピソードがあった。
左目がよく見えないとサムエレ少年が診察を受けるシーンで、医師は「弱視だね。視力を上げるためにはもっと見えないほうの目を使わなくてはいけないよ」とやさしく語りながら少年に右のレンズを蔽って左目だけで見る矯正眼鏡をかけさせる。
やがて少年の目にはいままで見えていなかったものが映るにちがいない。その目はこの作品を撮った監督の目とつながっている。
(二月十三日Bunkamuraル・シネマ)