お金の欠点

「金というものの唯一の欠点は、使うとなくなってしまうということである。これは実際、困ったものであって、使うとなくなるからというので使わずにいれば、なんのために金を持っているのかわからない。」
吉田健一「金銭について」より。金についての箴言集が編まれるときは是非収録していただきたい。
使うとなくなってしまうという金の欠点ではあるが、使わないことにはしかるべき満足も得られない。使うとふところがさびしくなる。古今亭志ん朝さんがよくまくらで、ちかごろは一万円札をくずしてしまうとたちまちなくなってしまいます、そこで、くずすのを出来るだけ遅くする、遅らせる、これしかございませんナと語っていた。
「死ぬ思いをして、やっとためた金を残して死ぬのは、あまり気がきいたことではない」。貯金はこれと定めた目的のためだ。ならば先に借金をして目的を果たしあとで返してゆけばよい。おなじく「金銭について」にある借金の効用は昭和三十年代には冗句と考えられていたかもしれないがいま読むとカード社会の到来を予見している。
         □
ことし最初に手にしたミステリーはエドワード・アタイヤ『細い線』。まもなく瀬戸朝香主演でNHKが放映するというので楽しみにしている。わたしはこの作品を成瀬巳喜男監督「女の中にいる他人」の原作として知った。先日書店の棚に新訳本(真崎義博訳)を見た瞬間「おっ」と手を伸ばしたのだった。

『細い線』は殺人を犯した夫の良心の呵責と犯罪を知らされた妻の心の推移を描いた作品で、原書が刊行された一九五一年当時は本格推理や倒叙ミステリーとは異なる夫婦間の心理描写に重きを置いた斬新な作品だったと思われる。映画化にあたり成瀬監督が起用した新珠三千代が素晴らしく、彼女の最高作だと思う。
未見なのだがテレビドラマとしては余貴美子主演でテレビ東京が製作していて、この場を借りてお願いしたい。NHKの放送に合わせテレビ東京版の再放送を是非!
         □
「顧みて他を言う」という格言がある。六十代なかばになるこの歳まで、他人のことを非難するなら自分を反省したうえで言え、という意味にとっていたがそうじゃないんですってね。
呉智英『健全なる精神』に「孟子」にあるこの言葉は答えに窮してあたりを見回して本題とは別のことを言ってごまかすというのが本義とあった。
野党になった民主党やおなじく野党時代の自民党の言説には政権与党だったときのことを反省してものを言うべきだと感じることが一再ならずあり、これまでは「顧みて他を言う」と心でつぶやいていた。恥ずかしいな。
こうした不明について著者は「こんな出来の悪い高校生なみの言葉の誤用」「一知半解の古典知識」と述べている。自分の文章で用いたことがないだけがお慰みである。
         □
丸谷才一『笹まくら』は戦時中徴兵忌避のため砂絵屋に扮して全国を旅して逃げおおせ、戦後はそのことでしっぺ返しをくらう大学の事務職員の物語だ。過日たまたま種村季弘『雨の日はソファで散歩』を開いたところ、徴兵忌避者についてはモデルがいる旨のことが述べられてあった。
同書「焼け跡酒豪伝」には「最近出た集英社文庫の『ユリシーズ』の訳者の一人永川玲二。彼は終戦の半年前に広島陸軍幼年学校を脱走して全国を歩きまわって、ついに脱走に成功したという人。軍学校の脱走は、逮捕されたら銃殺でしたからね」とある。
一九四五年の二月に軍学校を脱走して敗戦を迎えたなんてたいへんなことをやったものだ。
陸軍幼年学校では外国語はちゃんと教えていたから脱走者は戦後東大に入学して英文学者になった。
種村が挙げた集英社文庫の『ユリシーズ』は丸谷才一、永川玲二、高松雄一の共訳で、『笹まくら』の作者には身近に格好のモデルがいた、あるいはこの人がいたことで作者はこの小説を発想したという一面があったと考えられる。
『笹まくら』はわたしが多少なりとも現代の日本文学に興味を覚えたきっかけとなった愛読小説だが、モデルについてはまったく知らなかった。ちょっとしたおどろきとともに名前を知るだけだった永川玲二という人に興味を覚えた。
         □
二0一七年一月二十二日、午後ワルシャワ空港を発ち成田に向かう。午前中は寸暇を惜しんでワルシャワの旧市街をあるいた。日曜日でミサが行われているので入場はむつかしいと言われていた聖十字架教会にもさいわい入ることができた。ショパンの心臓を収めた壺が安置されている教会としても知られており、前の広場にはコペルニクス銅像が建つ。若い夫婦が小学生とおぼしい子供といっしょに祈りを捧げる姿や老若男女の合唱する聖歌が心を洗ってくれた。無神論者が覚えた宗教的時間だった。
旧市街はナチスドイツの空爆により壊滅状態になり、戦後、復旧工事により再現された。オリジナルが失われた町としては唯一ユネスコ世界遺産に登録されている。折りよく復旧工事の頃の写真展が開催されていて、大国に隣り合わせるポーランドの地勢と歴史とそのなかにあっての不撓不屈の精神を思い、胸が熱くなった。