三人の生物学者

池田清彦『アホの極み』に二0一一年三月二十五日九十歳で没した柴谷篤弘氏を追悼した一文があり、一九八0年代なかば柴谷が構造主義生物学を提唱し、そのころ池田の書いた論文が柴谷の目にとまり、二人がこの学問の構築に情熱を燃やすこととなった事情が述べられている。
池田は柴谷について「傲岸不遜な私は先生と呼びたくなるような人をほとんど持っていないが、柴谷さんは稀有な例外」の人だという。もっとも池田が柴谷に面と向かって「先生」と言うと「私はあなたの先生ではありません」と叱られたそうだ。いかにも柴谷先生(って言っちゃいけないけれど)らしいエピソードだ。

柴谷先生は論理的、そして頑固一徹で情熱的、そこに意図せざるユーモアがあった。
前世紀の終わりから今世紀のはじめにかけてわたしは何回か柴谷先生とお会いした。もちろん生物学の学会じゃなくて、毎年、夏か秋に京都で部落問題全国交流会という小さな集会が催されていて、当時京都精華大学教授だった先生は必ずといってよいほど参加されて熱心に議論されていて、差別の問題についてお話をうかがったり、意見を述べあったりする機会を得たのだった。生物学関係以外に『反差別論 無根拠性の逆説』『科学批判から差別批判へ』といった著書があり、社会問題にも積極的にかかわった生物学者だった。
柴谷先生はわたしが大学の一般教養科目で生物学を教わった飯島衛という先生に感じが似ていた。早稲田で生物学を講じていたこの先生も、政治、経済、社会現象なにごとによらず一言口を挟まずにはいられない硬骨漢だった。
早稲田にはめずらしい京都大学出身で生物学、自然科学論では名のある学者だそうだが反骨精神といっぷう変わった性格が災いして京大には残れず早稲田に流浪の身となったと学生たちは噂していた。
いっぷう変わった性格というのは、政治経済学部の教授だったこの先生は政治学や経済学の専門科目の講義をのぞいたことがあり、その評定を自分の授業でする、つまり同僚の講義の悪口を堂々と口にすることで「経済学にはまだしも聞くべき講義があるが、政治学ときてはどうしようもない、そのなかですこしましなのは某某先生の講義くらいで、あとはどれもこれも困ったものだ・・・・・・」なんておっしゃる。
大学入学後ほどなく飯島先生の話を聞いた十代のわたしは唖然とした。しかも先輩諸賢の情報によると飯島評定はいいところを衝いているらしい。なんと妙なところへ来ちゃったのだろうと思ってもあとの祭りである。
のちに他学部の入試判定で、関係者の子弟にゲタを履かせているとの不正がニュースになったとき、定年退職直前にあった飯島先生はわが政経学部にも同様のことがあったと内部告発して退職した。
だいぶんまえに産経新聞社社会部編『大学を問う』(新潮文庫)を読んだとき、先生方の業績や教育水準などで問われるべきトップバッターとして挙げられたのがこの大学、この学部で、ある女子学生は「遊びたいから授業をさぼっているのとは違うんです。授業自体があまりにも無駄だから、そんなことに時間を取られたくないだけなんです」と語っていた。
当時の大学の文系学部なんてどこも似たようなものだったかもしれないけれど飯島先生としては警鐘を打ち鳴らさなくてはいられなかったのではないか。(いまはどうか知りませんよ)
ま、いろいろあってもわたしに入学許可を与えてくれ、語学以外の授業の出席はとらず自由気儘に過ごすうちに卒業させてくれたところだから感謝しなくてはならないが、それはともかくとして、わたしのなかでときに柴谷先生と飯島先生が重なって見える。
そうこうしているうちに池田清彦という生物学者の本を読むようになった。現代科学のもたらすいろいろな問題を素人にわかりやすく説いてくれ、生物学の視座からの社会巷談はむやみにおもしろい。「人を殺してはいけない、強姦してはいけない、というのは倫理や道徳の問題ではない。それに対し、社会のために尽くしましょう、とかエロマンガを見ないようにしましょう、とかは個々人の生き方の問題であって法になじまないのだ。人々の多様性を担保するためには倫理や道徳を法にしてはいけない。これは独裁国家への第一歩なのだ」「たばこを吸って命が縮むのがよしんば本当のことだとしても、それは平均値の話にすぎない。人間の遺伝子型は人により様々で、ある遺伝子型は肺がんになり難く、ストレスに弱いことはあり得る。このタイプの人はたばこを吸った方が長生きするはずだ」といったふうに柴谷、飯島両先生の衣鉢を継いで社会問題を論じている。
あれこれ書いているうちに母校の悪口めいた話にもなったが、ついでながら池田清彦先生の所属は飯島先生とおなじ早稲田大学で、似たような方がよく来るところだと思ったりしながらこの人の本を読んでいる。