『山猫』を読む〜マフィアについて

『山猫』のドン・カロージェロはドン・ファブリーツィオ公爵家が所有する大農地の管理人を務めているが、その経済力は主家を凌ぐほどに強く、また「お館さま」の土地を含むドンナフガータ村の村長でもある。その娘アンジェリカが公爵の甥タンクレーディと結婚したのは新興ブルジョワジーとしての力の証であった。
シチリアではローマ帝国以来ずっと大土地所有制が続いてきた。そのなかで地主が手作りを止め不在地主化すると代わって農場の経営を切りまわす者が必要となる。これがガベロットと呼ばれる管理人で、地主から安い地代で土地を借り受け、農民に又貸しして高い地代を取り、双方から多くの利益を引き出すことで新興の農村ブルジョワジーとなった。さらに選挙制度が導入されると集票マシンという政治的機能も果たした。『山猫』でもドン・カロージェロは選挙の管理者として力を振るっている。
このガベロットがマフィアの母体であった。
藤澤房俊『シチリア・マフィアの世界』(講談社学術文庫)はマフィアが発生した十九世紀から、一九八0年代後半にかけての時期を扱った優れた概説書で、ガベロットとマフィアとの関係について「『封土のマフィア』と呼ばれるマフィアの原型は、十九世紀に大土地所有制の社会関係の中で生まれた新興ブルジョワジーとしてのガベロットにほかならない」と述べている。
『山猫』ではガベロットという語は用いられていないけれどドン・カロージェロは長く続いてきたシチリアの大土地所有制のもとで不在地主に代わり農場経営にあたったガベロットの典型として描かれている。
ドン・カロージェロがマフィアだと言っているのではない。ただマフィアの親分の多くはガベロット出身だったからドン・カロージェロをめぐる記述からマフィアの出身階層のありようは読み取れるし、仮にマフィアだとすれば、のちに下院議員やリスボン駐在の公使となった娘の夫タンクレーディを通して国家権力とのつながりや政財界とのネットワークを想像することも可能になる。
のちの話になるが、第一次世界大戦中、カロジェロ・ヴィツィーニというマフィアは、山賊などに盗ませた馬を安く買いたたき、軍隊に高値で売り、また、病気や年をとった馬を安く買いたたいて軍に供給し、ことが露見すると政治家や軍の高官に手を回して無罪放免となった。(藤沢前掲書)
ただし大土地所有制を背景とした「封土のマフィア」の金策もここらあたりまでで、第二次大戦後にはさすがのシチリアにおいても大土地所有制は廃止された。これにより農村を基盤とする「封土のマフィア」は衰えて見る影もなくなり、代わって都市を基盤とするマフィアが勢いを得て、アメリカのマフィアたちとの連携が強化された。ここからはマリオ・プーヅォ『ゴッド・ファーザー』の世界である。

おわりに余話をひとつ。
イタリア統一運動に身を投じたドン・ファブリーツィオ公爵(ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画ではバート・ランカスターが扮した)の甥タンクレーディ(おなじくアラン・ドロン、ついでながらその妻となるアンジェリカはクラウディア・カルディナーレ)は「自分が属する階級の衰亡と家の財産の消滅を、手を拱いてじっと眺めている」公爵に「すべて現状のままであって欲しいからこそ、すべてが変る必要があるのです」(岩波文庫)と説いた。
それが映画の字幕(NHKBS)では「現状を保つには周りを変えるべきです」とえらくあっさりしていた。もうひとつ小沢一郎氏が小選挙区制を唱道するなかでこのタンクレーディの言葉を引用していて「変わらずに生き残るためには自らが変わらなければ」と述べている。
変わるべきは「すべて」なのか「自ら」なのか、あるいは「周り」を変えるべきなのか、短いフレーズながら三者三様で、自動詞と他動詞の相違も見られる。
素人としては専門家の訳出した岩波文庫版『山猫』が妥当かなと判断しているが、なお疑問としておきたい。