『山猫』を読む〜シチリアの挽歌

ことしのはじめシチリア島を含む南イタリアを旅したのを機に長年書架で眠っていたジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサの名作『山猫』(小林惺訳、岩波文庫)を手にした。
イタリア統一戦争を背景に、シチリアの名門貴族サリーナ公爵家の有為転変の軌跡を描いた歴史小説太宰治『斜陽』のシチリア版のイメージと書こうとしたところでAmazonのレビューを見ると「シチリアの〈失われた時を求めて〉」と評した方がいて鋭い寸言に唸った。

物語はイタリア統一前夜の一八六0年五月にはじまる。山猫の紋章を掲げるサリーナ公爵家の衰退は覆い難く、当主のドン・ファブリーツィオ公爵の憂色は濃い。衰運は新しい時代に即応することで挽回の可能性はあったかもしれないが公爵はかたくなまでに「自分が属する階級の衰亡と家の財産の消滅を、手を拱いてじっと眺めている」だけだった。
シチリアは二千年にわたり植民地状態が続いた。ビザンチン、アラブ勢力、スペイン王家、ブルボン王朝というふうに自分たちとは別の宗教をもつ、自分たちの言葉を話さない統治者の支配下にあったが、サルデーニャ王国の勢力増大とガリバルディによる両シチリア王国の征服によりようやくイタリアの統一が達成されようとしていた。
こうしたなか勅撰議員就任の依頼に公爵家を訪れたジルジェンティ県知事は統一イタリアの近代的行政当局はすべてを変えるだろうと語った。それに対し公爵は、変わっても悪いほうに変わる、山猫はジャッカルかハイエナに取って代わられるだけだとその申し出を断った。
公爵には幼いときから可愛がってきた甥で、統一運動に身を投じているタンクレーディがいる。シチリアの悲劇の歴史の体現者である公爵に対しタンクレーディは一族から出た新しいタイプの人物で、彼は公爵に「すべて現状であって欲しいからこそ、すべてが変わる必要があるのです」と説くのだが、公爵は、シチリアの輝かしい時代を信じたい、けれどそれは「古代ギリシャのニキアスの時代以来、新到来者の上陸のたびに行われた約束」でありながら、いまだかつて一度も実現されたためしがなく、結局、すべてが変わったあと、万事以前とおなじことになるだろうとしか考えられなかった。衰退のなかにある大貴族の眼にイタリアの統一はこれまで反復されてきた定型としか映らない。
そしてこの小説にはもう一人新しいタイプの人物として公爵家の領地の管理人で、領地のあるドンナフガータ村の村長を務めるドン・カロージェロがいる。新興階級の旗手そして政治的影響力も大きくなりつつある「自由主義勢力の頭領」である。
ある村民が公爵に「私は五本の指で数えてみました。ドンナフガータでのドン・カロージェロの収入は、間もなくお館さまに匹敵するほどとなりましょう。しかもこの村での資産は、彼の全財産の最小部分にすぎません」と告げるほどその擡頭は著しい。公爵の思いとは別にシチリアにも社会の変動と支配階層内部の勢力分布の変化という新しい波が押し寄せてきている。
ドン・カロージェロ村長の娘アンジェリカはフィレンツェの寄宿学校での生活を終えシチリアに戻っていて、ここにも新興階級の経済力が反映されている。
ドン・カロージェロは融資を返済できなかった旧家の所有地の取得やガリバルディ軍上陸目前の世情の混乱に乗じた小麦の収益などで資産を増やした。この新興勢力をドン・ファブリーツィオ公爵はどんなふうに見ていたか。
ある日、ドン・カロージェロが娘のアンジェリカをつれてサリーナ公爵家の晩餐会にやって来る。「お館さま」の土地の管理人つまり使用人が主家のパーティの客となったのである。ここで公爵は相手の燕尾服に「革命そのものの姿」を見て落胆と衝撃を受ける。
ドン・カロージェロの燕尾服はイギリス製の生地で上等のものだった。だが仔細に見ると、それは惨憺たる失敗作だった。英国製の生地を用いながら、吝嗇から地元の職人に仕立てさせていた。燕尾服は「政治的示威表現」としては完璧だったが、文化的には成り上がりを表出しているに過ぎなかった。落日の階級は文化的な高みに拠って威信を保とうとしたのかもしれない。
公爵は娘コンチェッタがタンクレーディに恋心を抱いているのを知りながら、二人の結婚は断念している。タンクレーディがアンジェリカに熱い思いを寄せているという事情もあるが、それ以上に甥が社会的、政治的地位を得るためには彼女の持参金を必要とするからである。それとアンジェリカの新興階級特有の積極性は愛する甥の伴侶にふさわしい資質であった。その資質をコンチェッタは持たない。
公爵にとっていまは落日のとき、いや山崩れの予兆のときだが、皮肉なことに貴族の鷹揚さが災いして相当に散逸した土地の一部はドン・カロージェロに渡っており、タンクレーディとアンジェリカの結婚はその土地を将来的には二人の子供のものとするから結婚は土地の買い戻しとなる。
公爵はタンクレーディとアンジェリカの結婚式で新妻とワルツを踊り「まだ幻滅、倦怠その他もろもろが、どんなことか知らなかったあの時代」に一瞬立ち戻ったような気がした。旧世代の貴族特有の「怠惰と自衛能力の欠如」がこの結婚でなんとか格好がついたからだろう。
旧来の貴族と新興の富裕層との婚姻は反復されてきた定型のバリエーションであり、シチリアの停滞になんらの変化を起こすものではなかった。苦みを伴う事態ではあるが公爵の見通しは誤っていなかった。あと彼に残されたのは「自分の人生の収支決算書」であり、膨大な赤字の山のなかにあるわずかばかりの金片の拾い出しである。
『山猫』はタンクレーディとアンジェリカの結婚で一つの区切りを迎え、叙述もそれまでの時系列に則した緻密なものから、いくつかの時期を際立たせた点描ふうのスタイルに変わる。
タンクレーディの結婚から二十年あまり経った一八八三年、公爵は人生の収支決算書を心に浮かべながら逝く。このときタンクレーディは下院議員であり、またリスボン駐在の公使が約束されていた。
それからさらに十七年経った一九一0年、本書は大団円を迎える。
タンクレーディは亡く、サリーナ公爵家の三人の姉妹はそれぞれ七十をすこし越した年齢になっている。財産は分割に分割を重ねて、有利に見積もっても他の格下の家系と同等くらい、富裕な企業家の所有する財産と比べればほとんど取るに足らないものだった。
こうして作者ランペドゥーサはみずからの先祖ジューリオ・ファブリーツィオ・トマージ・ディ・ランペドゥーサ公爵をモデルとするサリーナ家の滅亡の過程を描き、シチリアの挽歌を奏でたのだった。