『フランス組曲』

イレーヌ・ネミロフスキー『フランス組曲』(野崎歓、平岡敦訳、白水社)、第一部では一九四0年六月ナチスによるパリ占領にともない同市を脱出する人々の姿がアラカルトふうに描かれ、続く第二部では占領の具体のありさまが起伏に富んだ物語として綴られている。作者は五部作を構想していて、書き継がれていれば時代と人物が奏でる秀逸の組曲=大河小説となったにちがいない。
第二次大戦を現在進行形として観察、考察しながら著された作品である。すなわち進んで行く先は定かでなく、作品の一節にあるように「男は捕虜になるか戦死するかしていなくなり、代わりに敵がやって来た。嘆かわしい限りだが、朝の行方はだれにもわからない」状態にあった。このなかで作者は心に「だれにもわからない」行方を思いながら、いまを見つめ、書いていた。
くわえてナチスの手がユダヤ人である自身に及ぶことも憂慮された。その懸念は本作が第二次大戦を描いた文学の最高峰の一つとなる予兆を感じさせたところで現実となった。
戦争の勃発とともに作者は乳母の実家のあるブルゴーニュ地方のイシーという田舎町に避難し『組曲』を書き継いでいたところ一九四二年七月十三日憲兵に捕らえられ、まもなくアウシュビッツで亡くなった。三十九歳だった。
原稿は夫ミシェルの許に残されたが、同年十月九日ミシェルも連行され二度と戻ってくることはなかった。小型のトランクに入った原稿は当時十二歳の長女ドニーズが父から託されていて、逃げ延びたドニーズと次女エリザベートの手で護られた。それを母のプライベートな日記と思っていたドニーズは、新たな悲しみが押し寄せてくるであろう母の最期の言葉を読む勇気をもたないまま歳月が過ぎた。彼女がトランクのなかにあるのは未完の長篇小説と知り、ようやく出版にこぎつけたときは二十一世紀、二00四年になっていた。トランクから甦った作品の上梓に感謝するいっぽうで作品が未完結となった事情に口惜しさと怒りを覚える。

本書を手にしたのは同名の映画の影響で、映画化された箇所は第二部にある若い人妻とその家に滞在するドイツ軍中尉がピアノに親しむことから惹かれあい、お互いの存在が心の支えとなるエピソードである。
「朝の行方はだれにもわからない」なかでの執筆だったから、ファシズムに対するフランス人民の抵抗といった戦後にデフォルメされた神話的、図式的なものはここにはない。具体に二三の場面を挙げておくと、たとえば家を提供させられた農家のおかみさんが滞在するドイツ兵に、お国での仕事はと質問すると錠前屋という答えが返ってくる、あとでご亭主に壊れた食器棚の鍵をみてもらおうかと相談したところ夫の顔がしかむ。たくましいおかみさんだ。
あるいは農村を占領していたナチスの部隊がロシア戦線に送られることになり、幾組かのドイツ人男とフランス人女が「手紙を書きましょうね、いつかまた会いましょう、ともに過ごした何週間ものよき思い出を、忘れはしませんよ」と別れを告げ合う。どこまでが本心だったかはともかくとして。
また登場人物の一人にフュリエール伯爵という銀行の重役がいて、予備将校だったから召集に応じたが「一四年のときは生き延びるくらいなら殺されるほうを選んだだろう。四十年には生きることを選んだ」と第一次大戦のときの心情とはずいぶん開きがあるのを自覚している。日本人にはわかりにくい第一次大戦と第二次大戦をともに経験した人の心模様の一端で、いずれも文学の効用を感じさせる挿話となっている。
フランスレジスタンス文学の傑作ヴェルコール『海の沈黙』も舞台はおなじナチス占領下のフランス農村だった。ここでフランス人の老人とその若い姪は突然自宅に同居することになったドイツ人青年将校に対しひたすら沈黙で以て抵抗する。青年将校は誠実な人だったが二人は沈黙を解かない。
『海の沈黙』の抵抗に対し『フランス組曲』は後世の者に見えにくくなっている歴史の襞を感じさせる。
レジスタンスをめぐる心情も多元的だ。
戦争より占領のほうがもっと恐ろしい 、やがては侵略者に馴れ、彼らも自分たちと同じなんだと思い始める。「でも本当はまったく違う。彼らと私たちは相容れない異なった二種類の人間で、永遠に敵同士なんだ」と立場を固める人がいる。
他方に大切なのは「自分の生きる道を選んでそれを保ち、群れには従わないという心の自由だ。さんざん聞かされ続けている共同体の精神なんてもううんざり」「せめて自分の運命に自ら判断を下す権利は残して欲しい」と願う人がいる。
作者が生き延びていればこれらの人々がときに交錯し、反撥し、理解しあうレジスタンスの組曲も試みられていたはずだ。
そしてもうひとつ本書の魅力として美しく確かな筆致で綴られたフランスの光景を挙げておかなければならない。
セーヌ川はあらゆる光のかけらを寄せ集め、それを多面鏡のように百倍にもして反射するかのようだった。覆いの不十分な窓、薄暗がりの中できらめく屋根、かすかに輝く扉の金具の先端、なぜかほかのところより長く灯っている赤信号、セーヌ川はそれらの光を引き寄せ、つかまえ、波間に戯れさせた」。
「草がきらめき、小道には雛菊や矢車草など、ありとあらゆる野草の花が咲き乱れている。まだ濡れた花々は陽光を受け、きらきらと光っていた。灌木の茂みを抜けようとしたとき、みずみずしいリラの花がリュシルの頬を優しく打った」
戦争と占領を主題とした作品とは思えない、つい古き良きパリやなつかしいフランスの農村と口にしたくなる情景がここにはある。