「64-ロクヨン-前編」

誘拐された幼女は殺害されたうえに犯人は不明のまま。わずか七日間で平成となった昭和六十四年に起きたロクヨンと呼ばれる少女誘拐事件だ。事件発生から十四年、時効が迫る平成十四年にロクヨンを模倣したとおぼしい事件が起こる。
興味津々たる謎の提出だが真相究明は後編に託され、前編は被害者家族、関係者の現在とこれまでの軌跡、警察内部の軋轢、警察と報道機関との捻じれた関係が眼目になっている。

終わるのが惜しいほどに読みふけった横山秀夫の警察小説の映画化だけあってストーリーにはぐいぐい惹かれたし、後編が待ち遠しい気にもなった。しかし、そのいっぽうで演出のあり方にはわだかまりを覚えた。
ひとつは事件が起きた県警内部における、中央から出向したキャリア組と地元警察官との関係の描写だ。キャリア組は地元組に対し横柄、無礼な振る舞いを繰り返し、嫌味と皮肉を連発する。それは高みに立つ者の威信の誇示であり、同時に現場を知らないエリートの虚勢を糊塗するものでもある。そこで、酷薄非道なエリートを地侍は慇懃を装い、丁重にもてなしながら肺腑を抉る言葉を浴びせてゆくのだろう、となるとこれはちょっとした和製ジョン・ル・カレの世界になるかもしれないと期待した。
ところが地元組の主人公で、かつてロクヨンの捜査にあたり、現在は県警の広報官を務める三上義信(佐藤浩市)は期待に反して高ぶらせた感情を露わにし、それとともに声もだんだんと大きくなり、ついには阿鼻叫喚のごとき状態に陥ってその大声をむなしく響かせるのであった。
瀬々敬久監督は役者に感情を放出させ、声を高ぶらせればドラマが盛り上がると考えているようで(「ヘブンズストーリー」のときはそんなふうに思わなかったのだが)これは本作に限らず近年の日本の娯楽映画の悪しき傾向だとわたしは思う。
地元刑事の職人気質とプロ根性、出向エリートに対する廉潔は荒ぶる感情や獅子吼では描き切れない。かつてのシリアスな刑事映画、たとえば「野良犬」で佐藤刑事(志村喬)や村上刑事(三船敏郎)が、あるいは「張込み」の下岡刑事(宮口精二)や柚木刑事(大木実)が三上広報官のようなたたずまいを見せたであろうか。あるいは先般NHKBSで放送された「刑事フォイル」にはずいぶん因業な警察、軍の関係者が登場するがフォイル刑事はすこしばかり口をひんまげるだけで、観ているこちらがカッカと頭に来ている始末である。
もうひとつは警察と記者クラブの関係で、記者の人品骨柄がよくないうえに、お役所勤めの経験者からすると両者の関係はあまりにリアリティを欠いている。そしてここでも記者たちの感情はほとんど失禁状態である。
おもしろかっただけに文句もつぶやきたくなる「64-ロクヨン-前編」だった。
(五月十三日TOHOシネマズ日劇