京極政治学と東芝の粉飾決算問題

京極純一先生の訃報に接してからこのかん、折にふれ『日本の政治』『文明の作法』『現代民主制と政治学』『和風と洋式』『世のため、ひとのため』等のあちらこちらを開いている。あらためて言うことでもないが、先生の個別の問題についての論述は鋭い観察力に基づいており、観察結果の適切な抽象化は叡智という普遍性をもつ。
その例証。
日本では個人より集合体が優越し、成員の一体性と画一性が強調されるあまり、個人心理における意識と自我の脆弱、集合的な情動と衝動の優越を招きやすい。換言すれば個性と知性の開発は抑止され、集合体の合理性は後退もしくは蒸発する。
集合体の合理性の後退もしくは蒸発の具体の場面としては「醒めた意識のもと、客観的な情報を冷静に収集、分析し、複数の行動路線を案出し、明確な基準を用いてそれらを比較検討した上で『合理的に』決定をすることが、個人的にも集団的にも、困難となる」。以上『日本の政治』より。
ここで思い合わされるのが昨年明るみになった東芝粉飾決算で、過去七年間の決算で税引き前の利益を2248億円もかさ上げしていた。
歴代社長の異様なほどの増収増益のかけ声は「集合的な情動と衝動の優越」となり、この会社が個人的にも集団的にも「合理的に」決定をすることを困難とした。その行き着いた先が帳簿の改竄であり、まさしく「事実の認知は仲間うちの合言葉の交換に堕し、評価は一体感確認の要求となり、指令は不適切な決定にともなう無用の負担の強制」となった。東芝の病巣の剔出はここに極まっている。
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イマジカBSで放送のあった「最後の恋のはじめ方」を観た。ウィル・スミスはデートドクター、つまりモテない男性にあこがれの女性と知り合うきっかけを作ってやり、恋が成就するよう導く指南役だ。

京極純一『文明の作法』には「人生行路、一心こめて愚直に反復して、なんとか間に合うのは、おそらく、求婚の言葉であろう。このとき、感情と意思の交流が主で、言葉は末である」とある。といっても求婚まで辿り着くのも遥かにして、山あり谷ありとすれば、そこにデートドクターを必要とする人も出てくる。
そんな男(ケヴィン・ジェームズ)がある日、ウィル・スミスのもとへやって来る。いよいよドクターの腕の見せ所、愉快で心暖まる恋のサポートがはじまる。
ただしデートドクターのお役目は恋愛を成功に導くまでだから、そのあとの結婚生活はどうすればよいか。『文明の作法』には「口に出して言わなくてもわかる筈、茶の間で番茶をすすり、黙って顔を見合わせて、心が通い合う、小津安二郎描くところの夫婦の境地、俺は断然あれに限る、などという明治調は、文明開化の今日、もはや通用しない」とある。恋愛にも、夫婦生活の円満な運行にも至れり尽くせりの技術指導を要する現代である。
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ルシアン・ネイハム『シャドー81』(中野圭二訳)を読んだ。1977年に新潮文庫で刊行されているからおよそ四十年ぶりの再読である。ただし今回手にしたのは2008年のハヤカワ文庫版。

かつてわたしに冒険小説の面白さを教えてくれた作品はいま読んでもまったく色褪せていなかった。はじめ読んだときはストーリーの面白さに惹かれて、ベトナム戦争愛国心をユーモアの手玉にとった側面を読み逃していたようで、今回の再読ではこうした面でよく笑わせてもらった。それと巻末の関口苑生氏の解説で、作者がこれ一冊で1983年に他界したこと等作品をめぐるその後の情報を教えてもらった。
デビュー作の特大ホームラン一発で人々の記憶に留まるという点で『シャドー81』とドナルド・A・スタンウッド『エヴァ・ライカーの記憶』は双璧だ。ただし『シャドー81』はアメリカでは殆ど話題にならなかったらしく、本書刊行のあと作者の作品発表はなかったという。となれば発掘した新潮文庫はエライ。
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『シャドー81』が伏流になったのか、書店で『新・冒険スパイ小説ハンドブック』(ハヤカワ文庫NV)というガイドブックを見かけてさっそく購入し、熟読した。こういう本は年金老人の家計によくないなあ。しばらく冒険小説にご無沙汰していたこともあり、あれやこれやチェックして、気がつけば『パンドラ抹殺文書』『闇の奥へ』『CIAザ・カンパニー』など十五冊を買っていた。
そのなかからまず気になりながら手にする機会のなかったマイケル・バー=ゾウハー 『パンドラ抹殺文書』を読んだ。この作品は諜報機関に潜り込んだスパイ=もぐらの特定、騙し騙される人間関係の変転の醍醐味、アクションというスパイ小説の魅力をしっかり具えている。
ミステリーに魅せられた大きなきっかけはエリック・アンブラー『あるスパイへの墓碑銘』だった。だから、諜報機関うしの熾烈な争いよりも素人が苦境に陥り、そこから脱出を図る、いわゆる巻き込まれ型のほうに惹かれる。『パンドラ抹殺文書』はそうした一面も具えるお徳な本だ。
本書に「世の中にはがまんできないものが三つあるって、オーソン・ウェルズがよく言ってたよ。それはなまぬるいシャンパンに冷めたコーヒー、それに欲望過剰な女だって」という会話がある。創作ではなく、オーソン・ウェルズがほんとに言っていたのだろうと思っていたところでたまたまスタンリー・キューブリックの遺作「アイズ・ワイド・シャット」を観た。
「なまぬるいシャンパンに冷めたコーヒー」ほどではなかったけれどいまひとつよく理解できなかったな。さしずめわたしの苦手なゲイジュツなんだろう。この映画のラストで、妻のアリスが、いろいろあったけれど、生きて帰ってきたことに感謝すべきだわ、それに夫婦の絆を確かめ合うために、いますぐしなければならない大事なことがあると言う。そこで夫のビルは、それは何と訊く。答は「ファック」。ちょいと欲望過剰な女の気味はあるかもしれない。
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多事争論」という言葉は福澤諭吉文明論之概略』に見えている。多くの人たちのいろいろな議論を通じて自由の気風は生まれ、保たれるということ意味する福澤の造語であり、リベラリズムの本質を端的に語って見事というほかない。そのいっぽうに「甲論乙駁」とか「処士横議」とか似た言葉もあり、これらの違いが気になっている。
「甲論乙駁」は甲の人が論ずると乙の人がそれに反対するというように、互いにあれこれ主張して議論がまとまらない状態を指す。こちらは「多事争論」にあるリベラリズムとの関係は稀薄で、むしろ似て非なるほうに近い。それと「多事争論」の目標には議論を通じての意思決定があるのに対し「甲論乙駁」はこの契機を欠いている。
「処士横議」の処士は幕末の脱藩浪士や豪農商出身の志士を指していて一国の文明論としての「多事争論」とは様相を異にする。ただウエブサイトを見ているうちに処士の典型を吉田松陰と説明してある記事があり、吉田松陰たちの「処士横議」がなければ「多事争論」も生まれなかったのではないかと思った。「処士横議」から「多事争論」へ幕末から明治にかけての政治思想の一端を見る思いがする。