「もうヒトツのソラ」展

表参道のギャラリー「PROMO-ARTE」で催された(二月十八日〜二十三日)森泉笙子さんの「もうヒトツのソラ」展へ行ってきた。絵画の展示とともに著書や関根庸子の名で日劇ミュージックホールにショーダンサーとして出演したときの公演パンフレット、グラビア記事の切り抜き、表紙を飾った「毎日グラフ」など貴重な資料も置かれてあった。

関根庸子はミュージックホールを経て一九五九年(昭和三十四年)新宿二丁目にバー・カヌーを開店した。厚生年金会館や成覚寺に近い、以前の特飲街仲乃町の中央道に面したところにあったこの店は埴谷雄高水上勉田村隆一中島健蔵野間宏井上光晴吉行淳之介たちが夜ごと集い泥酔した伝説の文壇バーで、そのころの回想記に森泉笙子『新宿の夜はキャラ色』(三一書房)がある。
野坂昭如がひょっとすると小説だって書けるかもしれないとひそかに考えていたころ、ここを訪れたのはそんな文士たちの姿を見てみたい気持からだった。
秋のさなかの一日、陽が落ちてすぐカヌーに入ってみると、赤いタイツをはいた大柄な女が、カウンターに沿ってならべられた椅子に乗り、天井の切れた電球を取り替えていた。客はいない。一見の、しかも気の早い客をいぶかしがりもせず、庸子が「いらっしゃいまし」といい、椅子を降りようとして、タイツのふとももの部分に小さな穴を見つけ、「あら、恥ずかしい」と掌でおさえカウンターの中に入った。
野坂の自伝小説『新宿海溝』にある関根庸子の姿である。かれにカヌーを紹介したのはエッセイストで、当時「婦人画報」の編集長だった矢口純で、『新宿海溝』には彼女のミュージックホールの楽屋での姿を語った矢口の言葉がある。
「とってもきれいな肌でね、丁度、ステージを済ませたばかりらしく、こう手を胸で交叉させて、オッパイをかくしながら、こんなかっこうでごめんなさいといいながら、すっと寄ってこられちゃってさ、あたいはもうインタビューどころじゃなかった」。
一九六五年関根庸子は埴谷雄高から森泉笙子の名をもらい改名した。以後は著作も絵画もこの名義となった。
「PROMO-ARTE」には抽象画とは別に埴谷雄高を描いた作品が二点展示されていた。
参加させていただいたオープニングパーティでは埴谷雄高の評論集を未來社で一貫して手がけた編集者松本昌次氏(丸山眞男『現代政治の思想と行動』や藤田省三の著作も担当されている)がスピーチされ、一九九七年八十七歳で亡くなった埴谷さんの享年を一つ越してしまいました、と語っていた。
一九三三年生まれの森泉さん、米寿の松本昌次氏ともにはつらつとしている。「あらまほしき」先達だ。