「ボヴァリー夫人とパン屋」

フランス西部のノルマンディー地方マルタンファブリス・ルキーニ)はパン屋を営んでいる。中年になり脱サラして帰郷し父の経営する家業を継いだ。
ある日、自宅の向かいにジェマ(ジェマ・アータートン)とチャーリー(ジェイソン・フレミング)のボヴァリー夫婦が引っ越してきた。イギリス人だからジェマとチャーリーで、フランスふうにいえばエンマとシャルル、くわえて姓がボヴァリー、そう、ギュスターヴ・フローベールボヴァリー夫人』の登場人物とおなじ名前なのだ。
マルタンの前職は出版社勤務で、文学大好き、しかも『ボヴァリー夫人』は愛読書である。パンを買いにやって来るジェマにマルタンの胸はときめき、夫妻と親交を深めるうちに美貌の人妻から目が離せなくなる。そして秘かに観察しているうちに法律家になるため短期間村に滞在して勉強している若い男とジェマとが密会しているのを知る。
若い男はたしかレオンと名乗っていた。とすればかれも『ボヴァリー夫人』の登場人物とおなじ名前をもつ。記憶違いとすれば、わたしは映画を観るうちにマルタンのような気分になっていたわけだ。

夫の目を盗み、若い男と情事を重ねるジェマの姿はボヴァリー夫人さながらで、これにジェマの元カレが絡む。こうしてマルタンには『ボヴァリー夫人』の物語が眼前に展開されているのも同然となる。
とすればジェマもフローベールの小説とおなじように零落のうちに命を落とすのか。そうなってはいけない。
マルタンは意を決してジェマを諌める行動に出る。
ところで『ボヴァリー夫人』が雑誌に掲載されたのは一八五六年、その前年五五年にはナポレオン三世統治下第一回パリ万国博覧会が開催されている。ついでながら日本に目を遣れば五四年にペリーが軍艦七隻を率いて再度神奈川沖に来泊している。そのころ有夫の女の婚姻外のセックスは日本では不義密通、フランスでは姦通といったところか。そうした感覚で『ボヴァリー夫人』を引き合いに出したマルタンの話は現代イギリスの女性ジェマにはピンとくる話ではなく、不倫と言ってみたところで彼女の思いは別のところにあったのかもしれない。
むかし、哲学者たちは世界をさまざまに解釈してきただけで、肝腎なのはそれを変えることにあると言った人がいた。マルタンはジェマを『ボヴァリー夫人』として見つめ、作品に沿って解釈したが、ジェマ自身は現実の生活をどう生きるかが問題であり『ボヴァリー夫人』は文学史上の知識に過ぎない。観察者、哲学者、解釈者のマルタンはそのギャップに気づかない。皮肉の効いたオチにもにやりとさせられる。
美しいノルマンディー地方の風景を背景にした、エスプリとユーモアとエロティシズムが漂う悲喜劇の監督はアンヌ・フォンテーヌ、脚本家にして女優でもある。
(七月十三日シネスイッチ銀座