『本で床は抜けるのか』

二0一二年二月ノンフィクション作家の西牟田靖は仕事場を鉄筋造り三階建てのシェアハウスから築五十年ほどの木造二階建てアパートの四畳半へと移した。引っ越し荷物の多くは本と本棚で、蔵書数は「少なくとも1000冊以上、2000冊以下というところ」だった。
引っ越しの当日、依頼した会社の社長が「よく思い切りましたね」と口にした。含みを持たせた言葉に「もしかすると床が抜けるってことですか」と確認したところ「いや、そういうわけではないですよ」と否定したが、西牟田は客の心証を悪くしないように言葉を選んでいるのではないかと完全には納得できなかった。それほど本が床にかける負担を気にしていたのだった。
井上ひさしは六畳の仕事部屋に六千冊の本を積んであったところ、ある日、本が土石流のように凄まじい勢いで崩れ、自分のほうに押し寄せてくるという「惨劇」を経験したという。
草森伸一は三万冊の本を詰んだ2DKのマンションで風呂に入ろうとしたところ本が四散し浴室に閉じ込められたそうだ。
どちらも経験者自身が著書で語っていて、本好きにはつとに知られた不安と恐怖のエピソードである。
引っ越しを機に、著者は本で床は抜けるかもしれないという漠然とした不安から問題の探索へと舵を切り、やがて井上ひさしの好子元夫人をはじめ、晩年の草森伸一を担当した編集者、多くの書斎を手掛けた建築士といった関係者の証言や調査結果をウェブ・マガジン「マガジン航」に「『底抜け』シリーズ」として連載した。これらの記事を加筆、再構成して成ったのが『本で床は抜けるのか』(本の雑誌社)である。

感銘を受けた本、学恩を受けた本などの忘れがたい本や日常しばしば参考とする本等々をすべて背表紙の見られるようにして書棚に並べられる人はしあわせだ。けれど読書を趣味とする人、著作者、研究者、編集を職業とする人などの多くは本の架蔵について悩み、難渋している。
本が好きと広言するにははずかしいくらいの読書量と蔵書数のわたしであっても悩みはおなじで、それゆえ何よりも本書には身につまされた。収納の悩み、家族からのプレッシャーと遠慮、紙の本と電子化についての組合せなど、いずこもおなじ悩みの風景がある。とはいっても著者はプロ=生産者だから蔵書は重要な生産手段で、当方のような消費者とは違い事態は深刻だ。本が生活の糧となると軽々に断捨離などと言っていられない。
「プロの物書きならば畳の上に本を積むこともトイレの壁に本立てを設けることも甘受するけれど、単なるコレクションである限りはダメ」というのが家庭を持って以来のわが家の指針で、亭主の本へのこいは、山の神のご意向と化学反応を起こすと、金持ってこいとなる。そうした才覚もない者は蔵書が限界点に達すれば新たに本を買ったと同量を手放す、つまり総量規制というルールに従うほかない。
自分の部屋の作り付けの書棚の一角にセパレートのスピーカーとそのあいだに好きなレコードのジャケットや絵を置いてみたいと思うけれど、それが叶わない。六十も半ばを過ぎると見切ってよい本はわかっていてもなかなか踏ん切りがつかない。書くうちになんだか私小説のような感じになってきた。というのも、本には思い出や苦闘の跡それに家族、周囲の視線を帯びた迷惑の堆積などが潜んでいるから、これは当然のなりゆきで、西牟田氏の本も読み進めるうちにそうした雰囲気が濃く漂うようになる。
「どうしてもしなくてはならない取材のため、2週間ほど家を空けて帰ってきた昨年(2013年)11月の下旬、夫婦関係は突如、危機的状況に陥った。家事や家計の負担の不公平や生活空間を圧迫する蔵書についての不満を妻から切り出された」。