「私の少女」

韓国映画「海にかかる霧」と「私の少女」に圧倒されたことしのゴールデンウィークだった。ともに監督デビュー作というおどろきもあった。いずれも見事な作品でわざわざジャンルの枠をはめるのは贅言のそしりをまぬがれないと知ってはいても、特に後者についてはミステリーファンとして、韓流ミステリー映画の傑作と声を大にして言わずにいられない。
ミステリーが社会の雰囲気に焦点を定め、時代の病巣を扱うようになって久しい。こうした立場にある作家は名探偵の活躍ではなく犯罪を見据え、そこから社会のありよう、とりわけその裏や底にひそむ難問を探ろうとする。「私の少女」はこの現代ミステリーの手法と韓国のある小さな集落における家庭内暴力や性的マイノリティー、外国人の不法就労といった問題を繋ぎながら人間と社会のあり方を問うた珠玉の作品で、オリジナル脚本をひっさげて監督デビューをしたのはチョン・ジュリ、彼女の脚本に惚れ込んだイ・チャンドン監督(「オアシス」「ポエトリーアグネスの詩」)がみずから申し出てプロデューサーを務めた。あえてイ・チャンドン監督の慧眼とは言わない。この優れた脚本を事前に読めば、プロデューサーを買って出たくなる人は多かったに違いないだろうから。

ソウルから、とある港町の派出所所長として女性警察官ヨンナム(ぺ・ドゥナ)が赴任する。キャリア警察官の左遷人事には何か不祥事が絡んでいるらしい。着任早々に彼女は一人の少女が中学の同級生に暴力を振るわれている場面を目撃する。しかもこの少女ドヒ(キム・セロン)は実の母親が蒸発し、血のつながりのない養父ヨンハ(ソン・セビョク)と義理の祖母からやっかい者扱いされてひどい暴力を受けており、村人や警察はこれを見て見ぬふりをしていた。横柄粗暴なヨンハは小規模ながらも事業所を経営していて寒村でそれなりに重きをなしていた。
ヨンハのドヒへの暴力はエスカレートしてゆき、見るに見かねたヨンナムは学校の夏休みのあいだドヒを引き取り、自宅で生活させる。彼女には自身への社会的抑圧とドヒが受けているそれが別物とは考えられなかった。ヨンナムはともに生活することで安心と落ち着きを得たドヒの姿を喜んだが、身近に生活して知ったドヒの複雑な内面にとまどいを覚え、ときに翻弄されているのではと思うことさえあった。
まもなくヨンハが雇用する外国人労働者に対して暴力事件を起こし、ヨンナムの対応方針を逆恨みしたヨンハはヨンナムの人事の原因となった裏事情を楯にとり自宅へ住まわせた際のドヒへの扱いが不当なものだったと提訴に至る。派出所の女性所長の逮捕というスキャンダルを機にヨンハとドヒとの関係はいっそう複雑な翳を帯び、やがてドヒは不可解な行動に出て周囲が動転する事態を引き起こす。
いくら立派な脚本と演出力があってもそれに応え表現できる役者がいなければ秀でた映画にならない。その点でぺ・ドゥナとキム・セロンの二人を得たのは新人監督にとってたいへんな僥倖だった。とりわけドヒ役にキム・セロンがいなければこれほどの作品になっていたか疑わしい。本編とおなじくイ・チャンドンがプロデューサーを務めた「冬の小鳥」で映画デビューしたキム・セロンだが、今回の役柄はあまりに複雑なために一度は出演を辞退したが「五百人の子役をオーディションしても決められなかった」という監督からの再度のラブコールに意を決して出演したという。
(五月六日ユーロスペース