退職五年目

桜のころは人事異動の季節だった。四十年近く官業に在り、年度末の三月二十日前後に異動の公表があった。サラリーマンの死命を制するといってよい人事だが自分が関係しなければ気楽で面白く、退職の翌年は発表の日にさっそくネットで異動表を見た。今年は二十日に発表があったのを二十七日になってようやく思い出した。それも銚子へ遊びに行った帰りの高速バスのなかですることのないままに、そうだ人事異動があったんだと気がついた。ただし異動表を見ても知る人は退職者欄に多く、昇任や転補の欄に知る名前はだんだんと少なくなってきている。これが退職後の歳月であり、やがて人事のことなど忘れ去るのだろう。

この四月一日より退職五年目に入った。思いついて槌田満文編『明治東京歳時記』を開くと四月の行事のトップに「四月馬鹿」が挙がっていた。iPhoneで「しがつばか」と打ってみると一連では漢字変換してくれなかった。いまエイプリルフールを四月馬鹿と言う人は稀ということだろう。かつては「万愚節」とも言われていたとか。こちらは歴史学の世界だ。
明治四十四年に刊行された若月紫蘭『東京年中行事』の四月一日の項に「月始めより運動会始まる」「学校ばかりではない。色々の会社や工場などに於ても、春の一日を費やして女工や職工店員などの為に慰労の運動会を開くことが近頃ようやく広く行われるようになって来た」とあり、当時の春の景物としてお花見とともに運動会があったと知れる。
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懐かしさと書籍費の節約からジョージ・ミケシュ『スパイになりたかったスパイ』(倉谷直臣訳、講談社文庫)を読んだ。奥付には第一刷昭和五十四年とあるから三十数年ぶりの再読となる。『退屈で死んだスパイ』という原題からもわかるように、エスピオナージュのパロディで、解説はスパイ小説が好きだった開高健が担当している。和田誠さんの表紙カヴァーがよい味を出している。

即製のスパイとしてロンドンにやって来たモスクワの大学生アルカージィを出迎えたのがイワンで、この人がしきりにことわざを口にするので、アルカージィもことわざで応じる。二人の口にするのがほんとにロシアのことわざかどうか不明ながらこれが面白い。
「早足に歩けば不運に追いつく。ゆっくり歩けば不運に追いつかれる」。
「飲めば死ぬ、飲まずとも死ぬ、ならば飲むべし」。
情報収集のため美しいイギリス娘とベッドに入ったのはよかったが、スパイとしての職務意識がわざわいして本懐を達することができなかったアルカージィくんの嘆き「自分のためにならいくらでもできるアレではあるが、祖国のために、となるともう奮い立ってくれない」。ここはミケシュの本文だけれど工夫すればことわざふうになりそうだ。
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雨の日が続く。書店の棚に『雨のことば辞典』(倉嶋厚原田稔編著、講談社学術文庫)を見て買ってきた。雨天の余得としておこう。
春の雨のことばを探しているうちに「花時雨」を見つけ、語釈に花どきに降る、時雨のような冷たい雨とあった。時雨は冬の季語だから、春咲く花を頭に添えた「花時雨」である。しかしこのところの雨は時雨の趣きではない。花を頭に添えた雨のことばに「花時の雨」があり、桜の花の咲く頃に降る雨ながら、花に嵐のたとえどおり花どきはよく風が吹き、雨が降る、花冷えで思わずふるえあがることもあると説明されている。この数日に降った雨を表現するとすれば「花時の雨」がいちばん近いだろうが、それにしてもなお激し過ぎる感がある。
寺田寅彦に「五月の唯物観」という一篇がある。「四月も末近く、紫木蓮の花弁の居住いが何となくだらしがなくなると同時にはじめ目立たなかった青葉の方が次第に威勢がよくなって来る」時候をめぐる随想で、「花時の雨」に続くその季節には、蘇芳の若葉、霧島つつじ、藤の花々が待っている。
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先日もとめた『雨のことば辞典』に照降町ということばが立項されている。
江戸時代、日本橋に照降町(てりふりちょう、また、てれふれちょうとも読む)という通りがあったそうで、この通りでは下駄屋と雨傘屋とが軒を並べていて、雨が降れば傘屋は喜び下駄屋は泣く、晴れると反対になるところから、おなじ状況でも笑う人の横に泣く人のいるたとえとなった。
日本橋の下駄屋さんかどうかは聞き漏らしたけれど、知合いの若いご夫婦が下駄を誂えて、こういうとき日本っていいなあと感じるっておっしゃっていた。『雨のことば辞典』に収めることばの数々を眺めていてわたしもおなじ思いを懐いた。照降町や青時雨(木々の青葉からしたたり落ちる水滴を時雨に見立てた)のように。
ただし氷雨の語釈「冬の、凍るように冷たい雨。本来は夏の季語で、雹や霰を指すことば」はいただけない。おまけに「外は冬の雨、まだやまぬ・・・」と歌われる歌謡曲氷雨」により、冬の雨としての市民権を確立したとある。歌謡曲のヒットとは関係なく氷雨は夏の季語であの歌詞は誤用じゃないか。
氷雨」はよくカラオケで歌う好きな歌だけれど、夏の季語を歌謡曲がヒットしたから冬の雨として追認するのは不見識で、あの歌詞は誤用とするのが語釈を記述する者の正しい態度だと思う。昔「シクラメンのかほり」の仮名遣いが問題になったが定家仮名遣では「かほり」なので「氷雨」とは事情が異なる。
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三島由紀夫文学座のために書き下ろした「十日の菊」の台本が刷り上がり、中村伸郎が読んでいると、奥様が「それなあに」と訊く。「三島由紀夫の、こんどの作品だよー面白いねェ、とても面白い」。すると奥様は犬のノミをとりながら言った「あの人も、書いてだけいりァいいのにねェ」と。
『おれのことなら放つといて』に収める中村伸郎の一文は東京新聞一九六一年十一月二十五日が初出で、このころ三島はときに文学座の舞台に立ち、映画では大映の「空っ風野郎」に主演している。剣道初段に合格したのもおなじ時期で、奥様にはここらあたりのことが念頭にあったのだろう。
「あの人も、書いてだけいりァいいのにねェ」と言う奥様に対してご亭主は三島の行動に好意的で、短い人生、やりたいことをやったらいい、シェークスピアも役者で作者だったそうだと書いている。三島の自決はこれが東京新聞に載った九年後の一九七0年、奇しくも同じ十一月二十五日だった。
いっぽう中村伸郎は一九九一年七月五日八十二歳で没した。「私の脳血栓の直後、医者は煙草も酒も、そして芝居もやめろと言ったが、みんな私の好きなものばかりである。この年まで来たのだから今更そんな植物人間みたいになって永らえるよりも……と酒も煙草もやめず」舞台に立ち続けた役者人生だった。生前自身を悼む一文には「楽しそうに酒、煙草に親しみ、はっきり過労と思われる舞台のスケジュールもこなし、それが寿命を縮めても悔いなしとしていた。つまりそれほどやりたい役者だったのだろう」と書いている。
中村には『おれのことなら放つといて』『永くもがなの酒びたり』の珠玉の随筆集があり、書名は自身の詠んだ「除夜の鐘おれのことなら放つといて」と「熱燗や永くもがなの酒びたり」から採っている。そこには「医学は植物人間を生かし続ける研究よりも、子供や若者を死なせない研究の方が大切である」「酒でも芝居でも好きなだけやらせて死なせるのが本当の名医だ」とある。
いずれも達観と覚悟のブレンド具合とそれらを基にした飄々が絶妙と言うほかなく『スパイになりたかったスパイ』にある「飲めば死ぬ、飲まずとも死ぬ、ならば飲むべし」も三舎を避くに違いない。
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上野の桜が葉桜となった。「葉ざくらや人に知られぬ昼あそび」と詠んだ永井荷風に倣いたいところだけれど、まじめにお固く貧乏してきた身は恒例のつつじ祭りが始まった根津神社を散策した。

「明治の初めまでは、染井の躑躅(つつじ)、巣鴨の菊とて盛なりしに何時しか菊は団子坂に移り、躑躅は大久保に限るやうになりたり」と平出鏗二郎が『東京風俗志』に書いたのが明治の三十年代で、そのひとつ『三四郎』にも名物として見えていた団子坂の菊は無くなって久しく、いまはお近くの根津神社つつじ祭りに人が集う。もうひとつの大久保の躑躅はいまどうなっているのだろう。若月紫蘭『東京年中行事』は躑躅の名所として大久保と日比谷を別格として、ほかに「棄てたものではない」として四谷見付あたりのお堀の土手、護国寺、本所四ッ目牡丹園、清水谷の躑躅を挙げている。また『東京風俗志』には団子坂に菊人形があったように大久保にはつつじ人形があったと書かれている。