「或る夜の接吻」余話〜接吻映画篇

キスシーンのある日本映画は第二次大戦後にはじまった。ただしどの作品を以て嚆矢とするかで異説があるらしい。
川本三郎『映画を見ればわかること2』によると「定説」とされているのは一九四六年(昭和二十一年)五月公開の「はたちの青春」(佐々木康監督)で大坂志郎と幾野道子がキスをしているそうだ。

ところが脚本家の舟橋和郎によると、自身が脚本を書いた「彼と彼女は行く」(田中重雄監督、宇佐見淳、折原啓子主演)のほうが同年四月の公開なのでこちらのほうが早い、となる。
さらに録音の高懸義人の証言では同年一月に公開された「ニコニコ大会 追ひつ追はれつ」(川島雄三監督)にキスシーンがあるという。
川本さんの本では触れられていないけれど、わたしは「或る夜の接吻」(千葉泰樹監督)における若原雅夫と奈良光枝のキスシーンが本邦初の接吻映画と信じ込んでいた。調べてみると「はたちの青春」の翌六月に公開されている。ただし男女が唇を触れる寸前に二人のさす傘が倒れてくるので、こうなるとキスシーンもどの程度のものなのか精査しなくてはならないだろう。ただ、「接吻」を題名にした映画は「或る夜の接吻」がわが国はじめてのものではないか。
ところで川本さんは「日本で最初の接吻映画は」と書いている。「キス映画」ではない。キスなる語をおおっぴらに用いるのははばかられる時代相が見えてくる。だから「或る夜の接吻」であって「或る夜のキス」ではない。
ある若い女性との世間話で「接吻だなんていやらしい、キスのほうはそんなには思わないけど」と言われたことがある。やってることはおなじでも言葉の感覚の具合でずいぶんと印象はちがってくる。おそらく戦後すぐの日本人は彼女とは反対に、接吻はともかくキスを口にするのにはためらいを覚えていた人が多かったのだろう。