リタ・ヘイワースのミュージカル

寺田寅彦は「コーヒー哲学序説」に、研究している仕事が行き詰まってどうにもならないとき、コーヒーを飲む、コーヒーカップの縁がくちびると触れようとする瞬間、ぱっと頭の中に一道の光が流れ込むような気がしたり、解決の手がかりをおもいつくことがしばしばあるようだ、と書いている。
ただしそうした研究のヒントが得られるのはそんじょそこらの喫茶店やチェーン店ではなく、人造でもマーブルか、乳色ガラスのテーブルの上に銀器が光り、一輪のカーネーションでも匂っていて、銀とガラスが星空のようにきらめいている、そんな空間である。
寅彦はコーヒーについての最高の貴族主義者すくなくともその一人で「コーヒーの味はコーヒーによって呼び出される幻想曲の味であって、それを呼び出すためにはやはり適当な伴奏もしくは前奏が必要」と言う。
その「コーヒー哲学序説」をわたしは上野のスターバックスで読んでいる。
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中村伸郎『おれのことなら放つといて』『永くもがなの酒びたり』につづいて芥川比呂志『決められた以外のせりふ』『肩の凝らないせりふ』を読んだ。中村伸郎芥川比呂志。親友にして名優、ともにエッセイの名手である。
あえて二人の著書の比較をすれば中村が芝居とともに趣味にもページを割いているのに対し芥川には演劇についての情熱的な言及が多い。そうした芥川の姿は中村のいくつかのエッセイに描かれている。また山崎努『柔らかな犀の角』にも肺疾患で入院中の芥川が深夜病室を抜け出して赤電話から「マク・ベス」の演出について電話をかけてくる姿が書きとめられている。話は楽しかったが深夜の電話は病人の体調を気遣わせた。
中村は句作を嗜んだ。書名も「除夜の鐘おれのことなら放つといて」の名吟から採られていて、同書には句集も収められている。芥川は演劇を論ずるうえでシェークスピアの詩などに触れても、自身の句作は語っていない。『柔らかな犀の角』には山崎努宛て賀状にある「朝日奈の仕方話や寝正月」が紹介されていにるから俳句には親しんでいたようだが、それよりも演劇を語りたかったのだろう
以下芥川本にあった若き日の長岡輝子のエピソード。
演出をしていて「何だかおかしいわね、その出て来方」からはじまり「どうして手を上げないの」と言ったと思うとつぎにはおなじ相手に「どうして手を上げるの」、わけがわからなくなってとまどっていると「あなた、どうしてそんなところにいるの」!呵呵。この人の演出に恨めしさを抱いた役者は多かったようだ。
もうひとつ芥川によるエノケンとロッパの比較。
ロッパ「笑いの王国」の公演は一度見て大笑いをしたもののそれだけだったのに対しエノケンとその一統(二村定一中村是公、武市豊子等)は後を引いたという。
わたしの感想を言えば、エノケンの舞台の魅力が映画にどれほど表現されているかはわからないがすくなくとも片鱗は窺われるように思うのに対してロッパの映画のばあい、どうしてこの人がエノケンと並び称せられたのだろうと不思議である。だから芥川比呂志エノケンは後を引いたというのはわかる。そしてロッパはいま文筆で後を引いている。
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ミュージック・シーンに不案内なわたしはチコ&ジプシーズといわれても名前すら知らない。そのアーティストのライヴへ誘われてブルーノート東京へ行ってきた。知っている曲も何曲かあり、それにまことにノリがよい。ルンバ・フラメンカと言うらしい。そのうきうきした気分のたのしいひとときをギネスビールとともに過ごした。

翌朝ノリがよくなったところで長谷川郁夫『吉田健一』を読みはじめた。上下ニ段組の活字650ページの本はおいそれとはとりかかれないがチコ&ジプシーズとギネスに後押ししてもらったような気がしている。
わたしのばあい吉田健一はそれなりに読んでいても、その師たる河上徹太郎は殆ど読んだことがないという偏頗なものだから、本書でようやく二人の出会いとその後の関係のありようを知ることになる。たのしみだ。
1931年イギリスから帰国した十九歳の吉田健一河上徹太郎は、アテネフランスでフランス語を学ぶよう勧め、ついでギリシア語、そしてラテン語をマスターさせた。当時の大学でギリシア語、ラテン語を設置しているところは殆どなかっただろうからアテネフランスはずいぶん充実した語学教育を行っていたわけだ。誰が教えていたのだろう。
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昔の映画を観ていると、ときに映画は音楽から古くなってゆくんだなと思う。それも日本映画に感じてしまうことが多い。画と言葉(せりふ、字幕)と音楽のうち、昔の映画と織り込んでいても音楽に違和感を覚えてしまう。三つの要素のうち、感覚の変容が大きいのは音楽じゃないかな。
檀ふみ編『映画狂時代』に収める「小津安二郎芸談」に「場面が悲劇だからと悲しいメロディ、喜劇だからとて滑稽な曲、という選曲はイヤだ。音楽で二重にどぎつくなる。悲しい場面でも時に明るい曲が流れることで、却って悲劇感の増すことも考えられる」とあり、小津のセンスの良さを感じる。清水宏についても同様で、あるいは互いに影響を受けていたのかもしれない。
昔の映画にときに感じる音楽の問題を小津安二郎は悲劇に悲しいメロディ、喜劇に滑稽な曲という二重のどぎつさにあると指摘した。定型と安直に寄りかかって、連句で言えば前句と後句の付け合いの具合が付き過ぎて却って調和を乱してしまうようなものだろう。

以下『映画狂時代』についての心覚え。
武田百合子「『日々雑記』より」には、著者が池袋の文芸坐地下劇場の「推理映画シリーズ 松本清張大会」への日参が述べられていて、文芸坐地下を知る人には懐かしいだろう。百合子さんが観た作品のうち原作の一篇「顔」が収められている。
地方在住だったから文芸坐地下にはあまりご縁がなかったけれど、いつだったか上京した際、折良くここでオンシアター自由劇場版「上海バンスキング」が上映されていて駆けつけたのを覚えている。地方ではなかなか見られない作品なので貴重な機会だった。DVDは未発売のようだけど出してほしいな。
西川美和「X=バリアフリー」は「ディア・ドクター』の視覚障碍者向けの音声ガイダンスづくりや李相日監督「悪人」を聴覚障碍者用字幕付きのスクリーンで観た体験を通して映画を考えた貴重な一文。バリアフリーメニュー付きDVDをお持ちの方はぜひご覧あれ、新鮮な発見がありますよ、と著者は言う。
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週刊文春」の小林信彦さんのコラムに、アステア、ロジャースコンビの結成のきっかけとなった「空中レビュー時代」の挿入歌「キャリオカ」を小林さんの和菓子屋の若い店員たちが「誰に金借りよか」と洒落のめして歌っていたとあった。外国のナンバーを日本語の文脈に置いての言葉あそびである。有名なのは「エノケンのダイナ」で「ダンナ呑ませてちょうダイナ、おごってちょうダイナ、たんとは呑まない」に本家のディック・ミネは苦笑いしていただろう。
ところでアステア、ロジャースのコンビは「キャリオカ」の「空中レビュー時代」(1933年)にはじまり39年の「カッスル夫妻」まで九作品を数えた。
それからアステアはエレノア・パウエルと「踊るニュウ・ヨーク」で共演、ついでポーレット・ゴダードとの「セカンド・コーラス」を経てリタ・ヘイワースとのコンビで「踊る結婚式」と「晴れて今宵は」を撮る。前者は1941年、後者は42年の作品。

リタ・ヘイワースは「ギルダ」と「上海から来た女」の印象が強くてノワール型愁いを含んだ美人といった感があるが、アステアと共演した二作品では明るい彼女が観られます。彼女はボードビルをしていた父親とともに小さい頃から舞台に立っていたからダンスはお手の物、タップを踏む脚線は美しい。
「バンドワゴン」でアステアが、シド・チャリシーの身長を気にしてペアを組もうかどうか決めかねているシーンがある。ボブ・トーマスの書いた伝記『アステア』には、撮影に入る前にリタ・ヘイワースにおずおずと身長を訊ねたとある。実生活の場面が映画に採り入れられてわけだ。
手許の資料ではフレッド・アステア175 cm、リタ・ヘイワース168cm、シド・チャリシー171cm。
リタ・ヘイワースのミュージカルではジーン・ケリーと共演した「カバーガール」も好きだ。