第二回日劇ミュージックホール同窓会

先月十一月二十四日、第二回日劇ミュージックホール同窓会がすこし早めの忘年会を兼ねて、前回とおなじ銀座のパセラを会場に開かれた。
参加者は五十音順に、梓かおり、小浜奈々子、小鳩美樹、殿岡ハツエ(ご夫妻で出席)、松永てるほ、岬マコ、若山昌子のダンサー陣に、ゲストとして根本圭介氏(昭和ロマン館館長、小松崎茂美術館顧問)、それとわたしも司会の西条昇氏、カメラの都築響一氏たちとともに世話人の一人として参加させていただいた。このうち梓かおりさん、殿岡ハツエ夫妻、根本圭介氏は今回が初参加だ。

(左から若山昌子さん、小浜奈々子さん、小鳩美樹さん)
わたしは銀座三越で松永てるほ、岬マコのお二人と合流して会場へ向かったが、てるほさんを待つあいだ、マコさんとすこし話ができた。
「いまひとつ会場の地図が頭にはいってなくて」
「大丈夫ですよ。しっかり案内しますから。でも長いあいだ有楽町の劇場で踊っていたのだから、銀座はフランチャイズのようなところでしょう」
「でもね、日劇のなかにずっといたから、和光や三越のほうへ来るなんてめったになかった」
「それほど多忙でたいへんだったんだ。そういえば小浜奈々子さんもミュージックホールで踊っているあいだは銀ブラなんてしたことなかったっておっしゃっていました」。
幕内の多忙とあわただしさは石崎勝久「日劇ミュージックホールを歩く」に示されているので参考までに引いておこう。
「早替りにつぐ早替りがあったりするシーン。舞台の袖にひっ込むと、そのまま螺旋階段をかけ降り、セリ下に走り込む。そして手早く衣装替えして、即セリ上がり。こんな時、ヌードたちの形相は、かわっている。それが、客の前にセリ上ったときは、まるで菩薩のようにおだやかなほほ笑みになっていて、さっきの夜叉の顔などまるで知りませんわ、みたい。さすが、プロ」。
こうした光景が平日は三回、土日は四回繰り返される。一回の公演は二か月にわたる。その後半になると次回の舞台稽古がはじまるから、和光や三越のほうへはめったに行かれなかったはずだ。
ただし同窓会の席上ではダンサーの方々はそうした苦労話はあまり口にしない。わざわざ話さなくてもみんないやというほど経験しているから、言わなくてもわかるはずといった気持なのだろう。それよりも挨拶や歓談で口にされるのは、いつしか消息が絶えた人たちのその後だ。
「奈良あけみさんとはよく旅の宿で同室になり、やってらしたバーへもときどき行っていたのに、いつのまにか所在がわからなくなって……」
そうした話をしているうちにわたしが2011年に刊行された築添正生(ちくぞえまさみ)遺文集『いまそかりし昔』を思い出し、著者の妹さんで、デビュー当時平塚らいてうの孫がミュージックホールの舞台に立ったと話題を呼んだ炎美可さんが、ある雑誌にお兄さんの回想を寄せていたと何人かの方に話したところ、知らなかった消息に触れてよろこんでいただけた。
平塚らいてうの孫がニュースになったのはもちろんだが、昭和四十年代、五十年代にあっては大学卒業のヌードも話題を呼んでいた。
梓かおりさんはデビュー当時大卒のヌードとしてずいぶん喧伝されていた。その話題にふれると「短大卒なのによかったのかしら」と笑いながらかつてを振り返っていた。
参考までにいえば、1970年(昭和45年)の女子の大学進学率は11.2%、短大は6.5%(男子の大学進学率27.3%)、1975年の女子の大学進学率は20.2%、短大は12.7%(おなじく41.0%)だから大卒のヌードは話題性があったわけだ。
梓さんの先輩で、おなじく今回初参加の殿岡ハツエさんからはミュージックホールの舞台に立ちながら映画にも出演していた当時の話があった。高倉健さんの訃報のあった直後で、話題は健さんとの共演や高倉健江利チエミ夫妻との交際に及んだ。
殿岡さんが健さんと共演したのは昭和39年公開の「いれずみ突撃隊」で津川雅彦杉浦直樹朝丘雪路といった人たちも出演している。なおYouTubeに予告篇があり、殿岡さんのシーンが見られます。
「でも、スクリーンでは脇役が多かったのよね」と殿岡さん。
すると誰かが「『かぶりつき人生』では出ずっぱりの主役だったじゃない」と声をかけると「あ、忘れてた」。そこで一同大笑い。なお「かぶりつき人生」は昭和43年に公開された神代辰巳の初監督作品である。
歓談がつづくうちに根本圭介さんから、客席から見たミュージックホールの思い出話があった。なにしろ浅草のストリップ劇場で知っていた渥美清がはじめてミュージックホールの舞台に立ったのを見ているから貴重だ。ただし、根本さんによると渥美清日劇は浅草の劇場と較べると水に合っていなくてミスマッチの観があったとか。
さて後半は恒例によりカラオケ大会。
〈おれのあん娘はタバコが好きでいつもプカプカプカ 
体に悪いからやめなって言ってもいつもプカプカプカ
遠い空から降ってくるって言う「幸せ」ってやつがあたいにわかるまで
あたいタバコやめないわ〉
殿岡ハツエさんが自身のヒット曲「プカプカ」を歌った。

シンガーソングライターの西岡恭蔵がジャズシンガー安田南をモデルにして作詞作曲したこの曲に70年代への郷愁を覚える人は多いだろう。いまのように煙草もおちおち喫えない世の中ではなかった。わたしは喫煙はしないが、極度に煙草を排斥するような社会がよいとは思わない。それはともかく、この曲のカヴァーヴァージョンはたくさんあり、殿岡さんはじめ原田芳雄桃井かおり、宇崎竜童そして近年では福山雅治奥田民生も歌っている。
殿岡さんのレコードは1974年にリリースされており、ことしシングルCDとして復刻リリースされた。そのご本人が歌う「プカプカ」に感激!
つづいて岬マコさんが歌う。その姿に日比谷の日劇ミュージックホールでトップスターだった彼女が歌手を務めていた像が重なった。本業の歌手と比べてすこしも遜色がない素敵なステージだった。ただしダンサーだけでもたいへんなのに歌手まで担当させるのはずいぶん東宝も人使いが荒いなと思ってもいた。マイクをもつ彼女の背後に劇場の合理化策を感じていた。

梓かおりさんにその話をしたところ「わたしはまったくそんなふうに見ていなかった。マコは未来劇場でも歌っていたから、ミュージックホールで歌うのにふさわしい人だったのよ」とおっしゃって、わたしのわだかまりと疑問は解消した。彼女はダンサーとともに歌手としての才能を発揮していたわけだ。
といった話をしているうちにいよいよわたしのカラオケの番だ。
こうして歓談と歌の三時間はたちまち過ぎてゆく。