芥川比呂志を読む

所用で帰郷した。本は持たずに帰り、実家に預けてある未読本のなかから芥川比呂志『決められた以外のせりふ』と『肩の凝らないせりふ』の二冊を取り出し、気の向くままあちらこちらの頁を繰った。先日中村伸郎のエッセイを読み、親友だった芥川比呂志のエッセイも読みたいと意欲が喚起されていて、いまようやく読み頃を迎えた次第だ。
なかに慶應時代を回想したエッセイに、受講した講義と担当者が記されている。「文学概論」西脇順三郎、「藝能史」折口信夫、「中国小説」奥野信太郎、「フランス近代詩」佐藤朔といった豪華なラインナップにうらやましさを覚えた。
芥川は「山の樹」という同人雑誌に加わり、ここにおなじ慶應仏文の白井浩司や小山弘一郎がいた。その「山の樹」を通じて東大の中村真一郎福永武彦加藤周一たちとも友人となった。彼らは日吉と駒場から渋谷で落ち合い、喫茶店やレストランでコクトーの戯曲や山中貞雄モンタージュリルケヴァレリーを語ったという。その師友に恵まれた芥川の学生時代は昭和十七年十月繰上げ卒業による入隊とともに終わった。
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小津安二郎監督初のトーキー劇映画「一人息子」は「人生の悲劇の第一幕は、親子となったことにはじまっている」という芥川龍之介侏儒の言葉」にある箴言の字幕からはじまる。このサブタイトルを不可欠と考えた小津は、チーフ助監督の原研吉を介して芥川家にその使用を申し入れている。
「一人息子」は昭和十一年九月二十五日に公開されている。芥川比呂志『決められた以外のせりふ』所収「新劇俳優」によると、それに先立って試写会が邦楽座で行われ、このとき芥川龍之介夫人の文と長男比呂志は原研吉から小津を紹介され、挨拶をしている。
こうして「一人息子」は1903年生まれの小津安二郎1920年生まれの芥川比呂志との出会いの契機となった。芥川が小津の作品に出演することはなかったから、これは気鋭の映画監督とのちの名優との貴重な出会いだった。二人はお互いをどんなふうに見ていたのだろう。

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学校の先生の資質で重要な資質に声の大きさがある。知識が豊富で教育技術に通じているといっても生徒に聞こえなければ用をなさない。この点は役者もおなじで、芥川比呂志は役者にとっていちばん初歩的な、いちばん大事なこととして台本のせりふを隅々までしっかり読み、しっかり言うことを挙げている。
多くの映画ファンとおなじくわたしも海外作品を吹替えで観るなど絶えて久しくなかったが、DVDの時代になってときどきは字幕と吹替えの両方で楽しむようになった。ただ、音声が聞き取りにくいときはイライラする。語彙力の不足で意味がとれないのなら自分に起因するが発音が不明瞭なばあいもあるように思う。
「せりふに気をとられると、心の所在が定まらず、感情をしっかり表現しようとすると、その、表現しようとするという気持だけ、芝居がよけいになるようであった」と芥川比呂志が述べているように、役者の悩みは理解できるけれど何よりも言葉の明瞭さが前提である。芥川比呂志もずいぶん訓練している。
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作家宮沢賢治をイメージし、アルミで帽子とマントをあしらった岩手県花巻市の観光案内板からマントの部分が取り外されたというニュースがあった。賢治ゆかりの地十箇所に設置された案内板の枠に取り付けられたアルミ製の帽子とマントで子供がぶつかってけがをするとの苦情が市に寄せられたという。
西部劇で保安官がつけている星のバッジはブリキで出来ていて「リオ・ブラボー」の原作の題名は“The Tin Star”つまり「ブリキの星」。和田誠『お楽しみはこれからだPART6』には「真昼の決闘」の「正直に生き、貧乏で、道ばたで死ぬ。ブリキの星のために」というセリフがある。
マカロニ・ウェスタン「星空の用心棒」でジュリアーノ・ジェンマのテッドが最後、銃に一発の弾ものこっておらず、敵のボスが近づいて来たとき、悪徳保安官ダグラスが付けていた星形のバッジを投げ、それが相手の咽喉に突き刺さる。ブリキのバッジはときに武器となる。

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帰京してシネマヴェーラ渋谷清水宏監督「暁の合唱」(1941年)を観た。若き日の木暮実千代のバスの車掌さんが「お降りの方いらっしゃいませんか」ばかりでなくカーブやでこぼこ道への注意などじつに親切細やかに声をかけていた。路線バスから車掌さんがいなくなって久しいが、こうした気配りは日本独特だろう。
『肩の凝らないせりふ』で芥川比呂志が劇場の客席のアナウンスに苦言を呈していた。「本日は御来場下さいましてだの、プログラムはいくらで、どこで売っているだの、便所はどこだの、次の公演は何だのと、むやみに電気仕掛の親切丁寧を聞かされるんじゃ、その分だけで割を食っちまうじゃありませんか」
劇場や公共交通機関でのアナウンスを細やかな気配りと考えるか騒音社会の表れとみるかは人それぞれだろう。芥川比呂志は、日本人は電気仕掛で、マイクとスピーカーを通してしゃべったり聞いたりするのが好きなのかもしれないと言う。こうして親切丁寧な劇場のアナウンスや細やかに注意を促すバスの車掌さんとカラオケは一連のものとなる。
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昭和三十年代前後のプログラムピクチャーを監督別に論じた川本三郎筒井清忠『日本映画隠れた名作』(中公選書)を読了。なかに面白いエピソードが散りばめてあり、わたしは知らなかったが、永田雅一大映社長は山本富士子を「高嶺の花」、その対比で若尾文子を「低嶺の花」と呼んでいたとか。
『日本映画隠れた名作』にはプログラムピクチャー陣営からの巨匠たちへのまなざしが紹介されていて、これも興味深かった。「旗本退屈男」を何本も撮った佐々木康は、自分たちが頑張ってお金を儲けているのに、内田吐夢とかが「雲の出が気に入らない」と文句を垂れて撮影を伸ばしていると批判する。
東映のお姫様女優高千穂ひづるは、自分たちは月に何本も出ているのに、片一方で「田坂具隆先生や内田吐夢先生が大作ばかり作る。それって何だろう」「なんだろう、あの人たちは」と思っていたという。東映では上の二人と今井正は別格だった。かつての純文学と大衆文学の区別は映画界にもあったわけだ。