あきる野市での柳家小三治独演会

NHKBSで「刑事マディガン」の放送があった。これまで見逃していたドン・シーゲル監督作品でマディガン刑事にリチャード・ウィドマーク、その上司にヘンリー・フォンダ。よい刑事ものだったことにくわえて公開された一九六八年当時のマンハッタンやブルックリンの風景に惹かれた。

エジソン・シアターという映画館が映っていて「トブルク戦線」が上映されており主役のロック・ハドソンの名前も見えていた。
ジャズスポットではマディガンに心寄せる歌手(おなじくドン・シーゲル監督「突破口!」にも出ていたシェリー・ノース)が「あなたは恋を知らない〈You Don't Know What Love Is〉」をマディガンにささやくように歌っていた。
「恋を失ってブルースがわかるようになるまであなたは恋を知らない」「恋とは失ってはじめて知る何か」。ずいぶんとミステリアスな歌詞だ。
コール・ポーター「恋とはなんでしょう〈What Is This Thing Called Love〉」の歌詞も、あなたは私の心を奪って捨てた、あえて天上の主に訊かずにはいられない、この恋というものはいったい何?このおかしなものが私を愚かにしてしまう、誰かこの謎を解いてほしい、といった内容で、さすがのコール・ポーターにしてはっきりした答えはなく、ラ・ロシュフコーも『箴言集』で「恋を定義するのはむつかしい」と言っている。
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消費税が増税されてから個人消費が大きく落ち込んだとの報道があった。これにはわたしの努力もすこしは寄与しているはずで、観たいDVDがあれば通販のアプリを開いていたのが、まずレンタルショップのアプリから検索するようになった。本もあまり買わなくなった。これには未読本、再読三読したい本の多数、収容スペースの不足、無職渡世ゆえの図書館利用の便宜といった事情があずかっている。
年収が減ると増収を図るか、減収に見合って生活を見直すかとなるが、わたしには後者の選択しかない。ところが退職して大きく減った年収に生活を適合させるのは不器用な者にはおいそれとはまいらず、あれこれと試行錯誤しながら学んでゆくほかない。
「商売は濡れ手に粟のひとつかみ(神)、守らせたまえふたつかみさま」と恵比寿さまと大黒さまにおすがりしながらそれなりのリスクを取って増収を図る選択肢はあるが、わが家計にあっては石橋を叩いても渡らないという基本方針のもと支出を減らすという消極的なマネーゲームに興ずるほかない。けれど、それで欲望が減ったり蒸発したりはないから、さらなる消費増税を控えて家計防衛と欲望をどのように均衡させるか、年金老人にはきびしい戦いが続く。
新聞で、節電すれば報奨金がもらえる制度の検討が始まったという記事を見た。電力需給の逼迫時に企業や一般家庭が電力使用を控えると電力を売ったとみなして電力会社がその分の電力を買い取るというもので「ネガワット取引」というそうだ。
そこでこれを家庭にも応用できないかと考えてみた。
ひと月の小遣いのうち余った金を家計に戻入すると、何割かを積み立てるという決まりにしておいて、緊急不要ながら欲しいなあと思っている値の張るものを購入するための基金とするなんてどんなものだろう。家計というミクロ経済を富ますことにはさほどでなくても節約のモチベーションは高まりそうだ。
節約といえば家族はまず遊興費を減らせという。もちろん生活防衛には必須のことがらであり、諸手を挙げて賛成である。ならば遊興費とは何か。狭くは娯楽や宴会などに使った費用をいうが、広くは最低限の食費・被服費・住居費を除く殆どすべてを指す。ならば書籍費はどうか。わたしはこれまで基本的には職業遂行のための必要経費と考えてきたが、周囲は道楽としてしか見ていない。本が投資となって現ナマの利潤を生み出さない限りは遊興費に過ぎないとの見解で、万事色と欲の世の中では読書生活も大変である。
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あきる野市在住の友人が同市きららホールでの柳家小三治独演会のチケットを世話してくれたので、はじめて五日市線秋川駅へ降り立ち、合流して会場へと向かった。演目は「初天神」と「野ざらし」。いずれも師匠自家薬籠中のおなじみの噺だ。

後者のまくらで語られた古今亭志ん朝師匠の思い出話が二人のファンとして嬉しかった。
ゴルフに凝っていた志ん朝さんが小三治さんにゴルフを勧めた。そのころボーリング一筋だった小三治さんが「あんな貧乏人のやるゲームはお断りですね」と口にしたところ「どこが貧乏なんだ!」と憤懣の反論が返って来た。
「だってそうでしょう、庭のねぇ家に住んでるもんだから、わざわざ他人の庭にまで出張ってプレーしてるのがゴルフじゃないですか」。
すると志ん朝さんが「何だって、それじゃあてめえがやってるボーリングなんか、家に廊下がないもんだから他人の屋敷まで出かけてそこの廊下で大きな玉転がしているんじゃねえか」。
小三治師匠云く「といった次第であっしが負けましてね、とうとうゴルフはじめちゃったってわけなんです」。
柳家小三治『落語家論』には志ん朝さんから存命中に聞いた志ん生志ん朝父子のやりとりが書かれている。
駆け出しの頃の志ん朝さんが「お父ちゃん!噺てぇのァどうやったら面白くできるの?」と訊ねた。父子のあいだだからさぞ秘訣を伝授してくれるだろうと思っていたのだろうが、答は「ツマリソレハ、面白くやろうと思わないことだよ」というものだった。
このやりとりについて小三治さんは、志ん生師はわが子に「落語はもともと面白くできてるんだから、素直にそのままやればいいのだ。それを無理に笑わせようとしたり、わざと面白くやろうとするからつまらなくなっちゃう」ということを言いたかったらしいと述べたうえで、これを座右の教訓としていると述べている。これにつづけて「ギャグやいれごとがいのちという人の噺には心の底からボクは幸せになれない。笑うことは笑っても、笑わせられたという疲労感が残るし、多くの場合は笑えない」としるしている。    
きららホールでの噺はこうした芸談をうかがわせるものだった。
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八月末に右足太もも裏のハムストリングの筋肉の挫傷と診断され、ランニング厳禁となった。十月に入り、ようやくリハビリテーションとしてすこし走ってみますかというところまで来た。それでも、ももの裏からひざ裏にかけて違和感はある。ぼちぼちと完治をめざすしかない。
退職者対象の健康講話で、講師の方が、食事のコントロールに留意し「残す勇気」を強調されていた。今回の筋肉の挫傷については、夏場はミネラルウォーターを飲むくらいではダメ、もっと食べなければいけないと言われた。体調管理に一般的法則はないと知りながらもなかなか難しいものだ。
以前から知り合いの長距離走の指導者から「休む勇気」の大切さを説かれていて理屈としては理解していたが現実にはこの勇気を欠いていた。「飲む打つ買う」方面では自制心は働いてもランニングには働かなかった。自制心がどこのところに働くかは人それぞれである。転ばぬ先の杖を説くのは易しいけれど、とことんまでやってみないことには本当の理解に達しないとも思う。酒、女、博奕そして走りも。