ジェームズ・M・ケインと映画〜『カクテル・ウェイトレス』余話

ジェームズ・M・ケインの作品についてわたしが知るのは『郵便配達はベルを二度鳴らす』と『殺人保険』(『倍額保険』の訳名もある)それと『ミルドレッド・ピアース』の三作品しかない。このうち『郵便配達』と『殺人保険』は本を読み映画も観たが『ミルドレッド・ピアース』は映画と近年ケイト・ウィンスレットが主演したテレビドラマだけで原作は読んでいない。たぶん訳書はない。

そんなところからケインについては寡作のイメージがあったが、じつは十九の長篇と多数の短篇がある。その掉尾を飾る長篇小説『カクテル・ウェイトレス』が新潮文庫で出たのにあわせ同文庫ではおなじ田口俊樹訳で『郵便配達』の新訳が出た。これを機にケインの作品が陸続と刊行されるよう期待したい。とくに新潮文庫さんには『殺人保険』の復刊もしくは新訳の刊行をお願いしたいな。
それとケインの小説を原作とする映画は二十作品ほどあるそうなので、ぜひその全貌を知りたい。凄い鉱脈のような気がする。
郵便配達は二度ベルを鳴らす』の映画化だけでも新潮文庫新訳によると七回もある。なかでわたしが知っているのは以下の四篇。
1 1939年ピェール・シュナール監督、フェルナン・グラベ、コリンヌ・リュシエール、題名は「最後の曲がり角」。山田宏一の名著『美女と犯罪』によれば、フランスでは1930年代後半に『郵便配達』が刊行された直後ジャン・ルノワール、ジュリアン・デュヴィヴィェ、マルセル・カルネの三巨匠が映画化を企図していた。『郵便配達』は1934の刊行だから1930年代後半というのはフランス語の訳本を指している。
2 1942年ルキノ・ヴィスコンティ監督、マッシモ・ジロッテイ、クララ・カラマイ
3 1946年ティ・ガーネット監督、ジョン・ガーフィールドラナ・ターナー
4 1981年ボブ・ラファエルソン監督、ジャック・ニコルソンジェシカ・ラング
このうち234はDVDになっているが、1はむかし民放の深夜番組で一度放送されただけと聞いている。永年接したいと念じているわたしの未見の必見作だ。こういう作品が放映されるとNHKの高い視聴料金もよろこんで払いたくなるのに。

主役のコリンヌ・リュシエールは「最後の曲がり角」の前年1938年に出演した「格子なき牢獄」が日本でもたいへん話題となった。
堀口大學「これは大した女優である」。
河上徹太郎「実に素晴らしく輝かしい」。
東郷青児「又巴里が一つの新しい型を発見した」。
亀井勝一郎「この一少女の容貌には長い文化の伝統のみがはじめてもたらし得る独自の美しさがある」「恐らく現代フランス女性の一番見事な典型」「私は映画における美貌といふことを改めて考へさせられた」。もう熱狂的である。
コリンヌの美貌は当時の日本の若者の琴線に触れるなにかがあったようだ。1922年生まれの作家中井英夫は戦後、彼女が対独協力の廉で薄幸薄命の人生を送ったと聞かされたとき「妙に腹立たしく、特別弁護人か何かになって、いかに彼女の不良少女ぶりが魅惑的で美しかったか、それが戦争中の日本ではいかに得がたい貴重な喜びだったかを一席ぶちたい気持に駆られた」という。
 1930年生まれで敗戦直後に「格子なき牢獄」を見た野坂昭如は、結核なら薬を送ろう、アルジェで悲惨な生活を送っているならお金を貯めてアルジェへ行って救出しよう、ナチスドイツの非人道的行為は憎む、しかしどうして惚れた相手がレジスタンスの闘士ならよくてナチスの将校だったら非国民になるのか、と書いている。
そして新潮文庫にあるとおり『郵便配達』映画化七回となるとこれらのほかに監督もキャストもわからない『郵便配達』の映画が三つもあることになる。ご存知の方ぜひご教示ください。
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レイモンド・チャンドラーはケインのことを「文学の屑肉」「私が嫌悪するあらゆる作家の特性を備えている」とこき下ろした。わたしはチャンドラーの大ファンだが、この人にかかるとヒッチコックパトリシア・ハイスミスもぼろくそだからチャンドラーからの誹謗中傷はケインの勲章と言うべきだろう。
皮肉なことに「文学の屑肉」の作者による『殺人保険』を映画化した『深夜の告白』(1944年)でチャンドラーは生活上の必要から監督のビリー・ワイルダーとともに脚本を担当した。ワイルダーもチャンドラーを扱いかねた様子で「彼はすばらしい作家だったが、変人で、人の神経を逆なでし、何をしでかすか予測がつかなかった。わたしをとことん嫌っていたよ」と評している。
こうした曲折を経ながらも「文学の屑肉」の映画『深夜の告白』がフィルム・ノワールの大傑作となったのはあらためて言うまでもないだろう。
よく知られるようにキャスリーン・ターナーのデビュー作「白いドレスの女」(1981年)はこの作品から大きな影響を受けている。
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『カクテル・ウェイトレス』を読むうち録画してあったテレビドラマ「ミルドレッド・ピアース 幸せの代償」が気になって、数日間読むもの、観るものすべてジェームズ・M・ケイン一色となった。

『ミルドレッド・ピアース』は1941年の刊行、1945年に監督「カサブランカ」のマイケル・カーティス、主演ジョーン・クロフォードで映画化され、クロフォードは本作でアカデミー賞主演女優賞を受賞した。殺人事件のからむ話で、アメリカの暗部を日本に見せたくないというGHQ占領政策により劇場公開されなかったいわくつきの作品である。
いっぽうテレビドラマは2011年にアメリカで製作された全五話のミニシリーズで、映画がフィルムノワール仕立にするために原作をだいぶん変えているのにたいし、こちらは原作に忠実にドラマ化されているそうだ。
美しくタフで、猪突猛進型のぶんいささか判断力を欠く女の半生記をケイト・ウィンスレットが好演している。映画とはちがい殺人事件はないが『郵便配達』や『殺人保険』とはタイプの異なる悪女がしっかり配されていて主人公と愛想劇を繰り広げる。そして1930年代の風俗描写と、当時流行していた楽曲がふんだんに取り入れられているのも魅力だ。
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「カスバの恋」(原題Algiers)という映画がある。1938年のアメリカ映画で、日本では公開されなかった。フランス映画「望郷」に感動したハリウッドのプロデューサー、ウォルター・ウェンジャーが映画化権を買い取り、リメイクした作品で、ペペ・ル・モコにシャルル・ボワイエ、ギャビーにヘディ・ラマールが扮した。「これまでスクリーンに現れた最も美しい女優の一人」と言われるヘディ・ラマールのハリウッドデビュー作として知られる。そして「望郷」を英語に翻訳して脚本を書いたのがジョン・ハワード・ローソンとジェームズ・M・ケインで、手許にビデオがないので確認できないが、ケインは「ダイアローグ・アドバイザー」としてクレジットされていた。