下城の太鼓

江戸城本丸と西ノ丸には御太鼓櫓が設けられており、ここで時の太鼓を打っていた。太鼓の直径およそ三尺、打ち棒の長さおよそ二尺、棒先は赤子のあたまほどもあったからずいぶんと大きく重く、これを御太鼓坊主が振り上げて時を告げた。
門は朝六つ(六時)の太鼓で開き、城内への出入りが終わるのを見届けて閉めた。退勤は夕七つ(午後四時)の太鼓からはじまり、小一時間も打ちつづけ、出入りが済んだのを見届けて打ちとめた。

以上、柴田宵曲『幕末の武家』を参照したが、各藩もこれに準じていただろう。残業する日はどうしていたのかなんてツッコミを入れられるとわからないので、ここでは残業に関係しない方に出ていただく。
藤沢周平たそがれ清兵衛』の主人公井口清兵衛は下城を告げる太鼓が鳴るといち早く職場を出て帰宅を急ぐ。周囲は長年のことに慣れっこになっていて、いつのころからか「たそがれ清兵衛」と呼んだ。
ある日、家老から重職会議への陪席を命じられて、会議が開かれる暮れ六つ(午後六時)にはのっぴきならぬ用を抱えているのでその役目を誰かに回していただけませぬかと願い出た。それほど清兵衛の退勤時間は徹底していた。のっぴきならぬ用とは病弱の妻奈美の介護で、ここから察するに、事情はともあれ江戸時代の武士も定刻に帰宅したりしていると白い目で見られやすかったようだ。
おなじく藤沢周平『秘太刀馬の骨』にも芳賀善助という残業関係なしの武士が登場する。
「本城の近習頭取は五名、うち二人は非番で今日登城して勤務についたのは野原、半十郎、芳賀善助の三人だった。だがこのうち芳賀善助はすこぶる割り切った男で、下城の太鼓をきくとただちに帰り支度をはじめて、ほかに用のない限りは『ではお先に下城つかまつる』とかえってしまう」
善助に抜き差しならない事情があったかどうかはわからない。いまでいえば係長クラスのポストにあるのに下の者より帰りが早いので変わり者扱いされている。ただし「上役の中には、夕刻の太鼓は下城をうながすために鳴らす太鼓で、ぐずぐずと居残るのはいいとは言えぬ、善助のような人間もいたほうがいいと弁護した者もあったとかで、芳賀善助の早下城は黙認されていた」のだった。
よく知られる川柳に「明日やれと言いつつ残る管理職」というのがあるが、上司がこれでは下の者は帰りづらく、その点、芳賀善助はさばけた人で、それに「ぐずぐずと居残るのはいいとは言えぬ」と弁護してくれる上役がいたのがさいわいした。
清兵衛も善助もともに海坂藩の藩士だが、勤務した時期が異なっていたのか清兵衛には定刻の退勤を弁護してくれる上役はいない。それにしても善助を弁護した海坂藩の重役はえらい。上司の亀鑑に足る人物と見受けるのに作品には名前も示されていない。そこで向こう見ずな推論をして、この人は荻生徂徠の門下、もしくはその流れを承けた方との結論に達した。

江戸時代の儒者国学者は武士の勤務のマネジメントをどう考え、どう論じていたのだろう。わたしがわずかに知るのは、荻生徂徠徳川吉宗に呈した献策書『政談』でこの問題を扱っていて、これにはかねてより感心している。
総じて役人はひまがないといけない。上に立つ者ほどすべてを見通さなければならず、全体への視点を忘れるとポカが生じてしまう。そのためひまな時間にあれこれ考え、また勉強もしなければならない。ところがいまは大役の者ほど毎日登城してひまのないのを自慢し、仕事が済んでもだらだらと居残っている。ローテーションが組めるなら毎日登城しなくてもよいのにみなが鼻を揃えて出勤し、用がなくてもあるように見せかけている。御奉公は中味実質が大事であって他人の目を意識するのは不要である。上役がこんなふうだから下の者も仕事が多いそぶりをするようになる。とんでもないことだ。
以上、徂徠の議論を現代語に直してみた。
すこし脇へそれるけれどせっかくの機会だから徂徠の人材登用論を見ておきましょう。
人事についていずれを昇任昇進させるか自分の目で直接確かめて判断したいと考えるトップがいる。そしてときに人事担当者が積み上げてきた意見をないがしろにして独断専行する。結果が吉と出ればよいが、逆のばあいは影響が大きい。人事担当者の評価を尊重するか、トップのメガネに叶うのをよしとするか意見はさまざまで、江戸時代にあっても人事のむつかしさは同様だった。
徂徠の立場ははっきりしていて、人を知ろうとしてその人を一日中見てもわかるはずはないのに愚かな者にかぎって「大将の目がねといひて、名将は一目見ても器量有人を知るといふ様におぼゆる」と斬って捨てている。人間を見抜く力を具えていると錯覚したり過信したりする上役など徂徠にははた迷惑もいいところな存在だった。そういえば「大将の目がね」による人材登用を傍から観察した経験があり、自分のことは棚に上げて言えば、なかにはひどくめがね違いの事例もあった。
自分の眼力で人材を見いだすなど占いか神通力でもなければわかりはしない。身分制の世のなかで高い位にある者は下情に通じていないからなおさらだ。ならばどうすればよいか。昇任候補者に「心一ぱいにさせて見る事也」と徂徠は言う。企画力や実行力を最大限に発揮させてはじめて見えてくるものがあるというのがその立場だった。
話をもとに戻すと「大役ほど毎日登城して、隙なきを自慢し、御用済ても退出をもせず……何れも鼻を揃えて出仕し、御用なくても御用ありがほに仕なす」風潮のなかで芳賀善助の定刻下城を弁護した海坂藩の重役の考え方は荻生徂徠に依拠していたのではないかと推理した所以はおわかりいただけただろう。
ところでわたしは官庁に七年間勤務したが、勤務時間の終了を告げるのは下城の太鼓ならぬ庁舎のスピーカーから流れる「家路」というメロディだった。ドボルザーク交響曲第九番新世界より」の第二楽章で奏でられる有名な旋律だ。なかなかよい選択であって、おなじ第九番でもベートーベンの「歓喜の歌」だとそれまでは苦役に従事していたみたいだし、シューベルトの「未完成」だと机の前から離れられなくなりそうだ。
わたしは勤務時間については徂徠学派だから、その日の仕事が済めば「御用なくても御用ありがほに仕なす」ことなくさっさと退庁した。いまは時代も考え方も変わってきているからどうか知らないが、よく言われた「サラリーマン五時から男がする出世」などアホの極みである。
ことさらに勤勉な性格ではないが、やるべき仕事にたいしてズボラであるとは思っていない。しかし、所定のルールに基づき仕事をこなしたうえ業務があろうがなかろうが勤務時間の終了後も職場に居残るのがあたりまえと考える人の目には勤勉さを欠くと映るかもしれないというのが自己評価である。
ずいぶん前に見た首都圏の大手企業に勤めるサラリーマン対象の調査では、早く帰れない理由として「同僚との付き合いが大事」「なんとなく」「上司が残っていると帰りづらい」「勤務評価に影響するかもしれない」といった項目が多数を占めていた。これに職場に残るのが好きでたまらない方をくわえると勤務時間終了後の職場はなかなかのにぎわいである。
わたしとてドボルザークのメロディが流れると退庁の機を窺い、よしと確認すれば間髪を入れず疾風迅雷、一瀉千里、脱兎のごとき速さでお先に下城つかまつったりしては多少の影響はあるかもしれないと知らないわけではなかったけれど、徂徠の教えはしっかり実践に務めていた。徂徠学に学ぼうとする者せめてこれくらいできなければ学ぶ資格はないと思いながら。