限りある人生に限りなく好きなことをして果てた二人の名優〜芥川比呂志と中村伸郎

昭和十年度キネマ旬報ベスト・テンの第一位はジュリアン・デュヴィヴィエ監督の若き日の傑作「商船テナシチー」が獲得している。原作のシャルル・ヴィルドラックの同名戯曲は一九二0年にフランスで初演され、のちに近代劇の古典と称されるようになった。
有名な作品なのでストーリーの紹介は避けるが、戯曲の冒頭には「運命は従うものを潮にのせ、抗うものを曳いて行く」というラブレーの言葉が引かれており、その作風からみてもジュリアン・デュヴィヴィエは自身の人生観、芸術観と大いに重なるものを感じていたと思う。

一九四一年(昭和十六年)、そのころ慶應予科の学生だった安岡章太郎アテネ・フランスの夜学にも通っており、そこで偶然会った中学時代の同級生から「商船テナシチー」の舞台の話を聞いた。
「じつはね、こんど『商船テナシチー』をフランス語で上演することになってね、僕もほんの端役だが、出ることになったんだよ。芥川比呂志―龍之介の長男だがねーその芥川氏なんかが一番張り切っちゃって大変なんだ、もう、ヴィユー・コロンビエ座のジャック・コボーの演出どおりにやろうと言うんでね」。
このときのフランス語劇には芥川のほかに加藤道夫や堀田善衛も参加していた。邦訳での上演には取締りや制約があったため語学学習の一環という名目でようやく上演にこぎつけた舞台だった。そのころパリはナチス・ドイツに占領されており、日本人学生によるヴィルドラックの芝居を喜びたかったのだろう、終演後フランス大使館は葡萄酒を贈っていて、このワインに込められた気持と戦争に向き合うなかで「商船テナシチー」を演じた心情は通じ合っていたと思う。
若き日の芥川比呂志についてはこの安岡章太郎『活動小屋のある風景』(岩浪書店)にある姿のほかは知らない。けれどこのわずかな記述からも当時慶應の仏文科の学生だった芥川比呂志の演劇への情熱をわたしは感じる。
中村伸郎『おれのことなら放つといて』(ハヤカワ文庫)に収めるエッセイ「役者バカ」に闘病中の芥川比呂志の姿が書かれている。「商船テナシチー」から三十余年が経っていて、このとき芥川は劇団「雲」の三百人劇場での公演、泉鏡花原作「海神別荘」の演出にあたっており、中村はそこに出演していた。
芥川の病状はよくなく、一階の舞台で稽古が出来ない日は三階の稽古場でやるが、その階段が昇れず、若い男に抱えられるようにして昇った。医者は休養させたいのだが、寝ていてイライラするよりはと、週に二回の稽古を許可しており、あとの五日は寝たきりで演出を練り上げた。
中村が「どう?」と訊ねると「どうも脈が結滞するらしい」と応えている。当人も楽観していない。中村はその芥川の姿に寄せてこう書いている。
「私は彼の気持がよく判る。やりたいのに出来ないンなら死んだほうがましである。無理をしたから死ぬとは限らないし、もしそれで悪化しても思い残すことはない筈である。
こんなのを悲壮、などと勘違いしてもらいたくない。死んでもいいから酒が飲みたいンなら、そのつもりで酒は飲むべし……。」
他人は無理して仕事をしていると見るかもしれない。すると芥川の姿は悲壮や壮絶になるのだが、そうではないと中村は言う。いわゆる仕事ではなく自分のやりたいことをやるという意味では飲みたい酒と同列であり、好きなことが酒や女ではなくたまたま芝居だったに過ぎない、と。
永井荷風は「西遊日誌抄」に「予は淫楽を欲して已まず淫楽の中に一身の破滅を冀ふのみ」と書いたが、荷風の淫楽が芥川の芝居だった。

芥川と中村はよき酒友だった。芥川は肺疾患、中村は胃と十二指腸の潰瘍で、注ぎあう酒はおたがいうしろめたいだけに労わりもあった。
「入院中に遺言を書いたところ実にさっぱりして、あとはオマケの余生だって気になってくる、きみも遺言を書きなさい」
「病気見舞にきて遺言を書け、はないでしょう」
癌研を退院した中村と慶応病院に入院中の芥川はこんなやりとりを交わしている。
「役者バカ」の背後にはこうした友情があり、芥川が自身の人生観を中村に吐露したかどうかは知らないが、仮に口に出して言わなくても病と闘いながら演出に打ち込む芥川の気持はしっかりと中村に伝わり、思いは中村の人生観とも重なり、このエッセイに的確に表現された。
「役者バカ」の初出は一九七五年一月「文藝春秋」で、六年後の八一年十月二十八日芥川比呂志は六十一歳で没した。限りある人生に限りなく好きなことをして果てたというのが安岡章太郎中村伸郎を通して見たわたしの芥川像であり、その生き方はまことにさわやかで、見事だった。中村伸郎もまた一九九一年八十二歳で亡くなるまで限りなく好きな舞台を務めきった。
永井荷風は淫楽のうちの破滅こそなかったが、好色とともにこよなく親しんだ散歩と日記は最期までつづけた。厳密を期せば一九五五年三月一日「病魔殆歩行困難」となり浅草への出遊はできなくなったが日記は没する前日の四月二十九日までつけていた。日記好きの執念であり、この執念に裏打ちされる好きがあっての役者バカであり日記バカだった。
諸行無常と思えばこそ、うたかたの短い一生、私はやりたいことをやって
   除夜の鐘おれのことなら放つといて
などとうそぶいてきた」
「私は徹底的療養とか、なンとしても直ろうという努力はしないことにしている、ムダであり、この世的に少し生きのびてもそれがナンだ、と思っているから」
いずれも『おれのことなら放つといて』にある言葉で、中村伸郎にこの強靭な個人主義と死生観とがなければ芥川の闘病は別のものとして映ったいただろう。