紹介『永井荷風と部落問題』

拙著『永井荷風と部落問題』(リベルタ出版2012年)が「人権フォーラム石川ニュース 第41号」(2014年5月1日)誌上で紹介されました。
筆者 高 隆造様の御了解のうえで以下に再掲させていただきました。併せて高様に感謝申し上げます。

この本の著者は、高知県の高校の元校長で、社会科の教員当時、校内で起きた差別落書きをめぐってのこと等が記され、そして、同和教育など部落解放に向けての数々の課題について述べられている。これらのことは現時点でこそ、総括と今後の展望について冷静に論じ合う必要があることを伝えている。
さて、本題の永井荷風についてであるが、荷風の随筆『傳通院』の記述を巡って、次の箇所に注目する(『荷風随筆』第1巻岩波書店1981年)。
「嘗ては六尺町の横町から流派の紋所を付けた柿色の包みを抱へて出て来た稽古通ひの娘の姿を今は何処に求めやうか。久堅町の穢多町から編笠を冠つて出て来る鳥追の三味線を何處に聞かうか。時代は變つたのだ」。
一般に流布している本では、この「の穢多町」の部分が、何の注釈もなく削除されて「久堅町から編笠を冠つて出て来る鳥追……」となっているとのこと。このようにされてしまうと、たとえば「鳥追」という被差別民が担ってきた芸能のことが分からなくなってしまいかねないのである。さらには、大正元年、この「久堅町の陋屋で困窮のうちに病没」した石川啄木のこと、あるいは徳永直の『太陽のない街』は、大正15年の共同印刷ストライキを描いたものだが、この久堅町界隈が作品の舞台となっており、「テキストの改竄がこの土地の記憶をないがしろにするものである」、と著者は指摘する。
この種の校訂がたとえば漱石の『坑夫』にも一時期までなされており、著者は「近代文学における部落差別について考え、議論しようとしても、以上のような校訂がまかり通るならばすでにその時点で議論はできなくなってしまっている」、「何が差別であるかを想定して、その者から、それは差別だと言われないようあらかじめ防御に努め、もしものときには一定の技術、制度、慣習に基づく対応をする」、「マニュアルどおりにすればよく、事態がそのまま続いてゆくと、確実に人はものごとを考えなくなる」と指摘する。そうしたことでは、もちろん異論もあろうが、ものごとが解決に向かわないのは明らかであろうと思うがどうだろうか。
ある時期、石川県でも郷土史の発刊が盛んであった。当時、それには部落問題については全くの無頓着に編集されたので、問題になる記述が多くあり、今でも図書館ではそれらの閲覧制限がある。そして、後にそれらの復刻版が出された折に、関係部分が削除されたため、今度は部落問題が全く見えなくなってしまったのである。これまた問題であろう。
昨秋、石川県同教から『石川の部落問題教材資料集』が発刊された。それには特高(特別高等警察)の資料が掲載されている。それは石川県社会運動史刊行会の刊行資料によるものであり、掲載されている文中には2カ所の伏せ字部分があり、それについての説明は元の資料にはない。今回の資料集の発刊にあたって、伏せ字部分が戻されているのは適切なことであろう。
ところで、この資料集には、新たに伏せ字になっている箇所がある。それは、「解放新聞」の記事であったりする。そうした処置は果たしてどうなのであろうか。
この『教材資料集』が、教育を通して人権確立へ資するものとしてと同時に、『資料集』としての「価値」も十分に検討し、判断する必要があるのではないか。改訂版に向けて期待したいものである。