復興の夢(関東大震災の文学誌 其ノ十六)

関東大震災の直前一九二三年(大正十二年)八月二十四日加藤友三郎首相が急逝し、内田康哉内閣総理大臣臨時代理を経て九月三日山本権兵衛内閣が発足した。ここで震災対応を任されたのが後藤新平だった。当初は外務大臣としての入閣と目せられていたが震災のため急遽内務大臣に廻り復興事業の指揮を執った。
後藤新平は日本の植民地経営の企画者であり都市計画家だった。台湾総督府民政長官、満鉄総裁を歴任し、鉄道院総裁として国内の鉄道を整備した。こうした経歴から関東大震災後は内務大臣兼帝都復興院総裁として帝都復興計画に尽力することとなり、世論も震災対応のエースとして期待した。震災の翌月に上梓された大曲駒村『東京灰燼記』には「後藤子爵よ、二百万の東京市民がいかに子の快腕に期待するかを知れ」との文言がある。

後藤の企画立案した帝都復興計画は十三億円の予算要求をともなうものだったが、議会で承認されたのはおよそ半額の五億七千五百万円だったから当初計画は縮小せざるをえなかった。それでも、現在の東京の都市骨格、公園や公共施設の整備の骨格はこの復興計画に負うところが大きいという。
後藤は復興のエース、待望の英雄だった。英雄待望論をよしとするものではないが、震災対応ならあの人だと多くの人びとが期待した政治家がいたことは記憶しておいてよい。いまの日本の政治を考えるためにも。
いっぽう政治の現実とは別に江戸の名残、残照への愛惜とともに帝都復興のイメージを語った文士たちがいた。愛惜と復興の成分は人によって異なる。永井荷風岡本綺堂には愛惜の念が強かった。それに対し谷崎潤一郎は「しめた、これで東京がよくなるぞ」と復興の行方に期待した。田山花袋は喪われた江戸情調を惜しみつつ、来るべき帝都のイメージを語っているが、多くの市民もこのふたつのあいだで揺れ動いていただろう。
花袋は、一例として両国から吾妻橋へ行くとちゅうにあった、百本杭あたりから安田邸のすこし手前にある橋から見た隅田川の光景を何とも言えぬ美しいものだったと述べ、震災によりその両岸が潰えたためもう見られなくなったのを惜しむ。消えてなくなったとなるとよけいに無念の思いはつのる。
他方で花袋は「『東京』の中に混り合って遙かにその一隅にその面影をのこしていた『江戸』すらもう全く綺麗に跡形がなくなってしまった。惜しいと言っていいのか、それともそんなものがなくなって好いと言って好いのか。私にはわからなかった」と書いている。
人々は江戸を惜しみつつ、江戸の何物も残っていない復興後のモダン東京に夢を託した。江戸の混じりけのない純粋のモダン東京をもっとも具体、熱烈に論じたのが谷崎潤一郎だった。

〈井然たる街路と、ピカゝした新装の舗道と、自動車の洪水と、幾何学的な美観を以て層々累々とそヽり立つブロツクと、その間を縫ふ高架線、地下線、路面の電車と、一大不夜城の夜の賑はひと、巴里や紐育にあるやうな娯楽機関と。〉
〈夜会服と燕尾服やタキシードとが入り交つてシヤンペングラスの数々が海月のやうに浮遊する宴会の場面、黒く光る街路に幾筋ものヘツドライトが錯綜する劇場前の夜更けの混雑、羅綾と繻子と脚線美と人口光線の氾濫であるボードヴイルの舞台、銀座や浅草や丸の内や日比谷公園の灯影に出没するストリートウオーカーの媚笑、土耳古風呂、マツサーヂ、美容室の秘密な悦楽、猟奇的な犯罪。〉(「東京をおもふ」)
これが三十八歳の谷崎が描いた十年後の東京の姿だった。
ここにはそれまで谷崎が作品を通じて追求してきたモダニズムの美学が、震災により空中楼閣から現実のものになるかもしれない予感と期待が語られている。もっとも谷崎の美学はこのあとモダニズムから「陰影礼讃」に急旋回するのだが、ここではそれに触れない。
帝都復興院総裁となった後藤新平は谷崎のような文学的発想は持ち合わせない。ただし「井然たる街路と、ピカゝした新装の舗道と、自動車の洪水と、幾何学的な美観」といった復興後のイメージでは共通する部分は大きい。結果も後藤が予算要求の半分ほどしか承認を得られず十分な事業ができなかったように、谷崎の夢も中途半端、期待はずれになってしまう。
十年後の谷崎の所感は「東京市の復興は、十年の間に見事成し遂げられたとは云へ、私が思つたやうな根本的な変革とまでは行かなかつた。私は当時の後藤(新平)内相が三十億の資金を以て一旦焼け野原を政府に買ひ上げ、規矩整然たる新市街を建設すると云ふ大規模な案を聞いた時、心私かに快哉を叫んだ一人であつたが、その後内相の案は実行されずにしまつた」(「東京をおもふ」)というものだった。
人びとの表情も期待したほどのものではなく谷崎は「『つゆのあとさき』を読む」に「さすがに近代都市の美観を感ずるけれども、しかし何となく埃ツぽい、落ち着きのない、カサカサした空気は相変らず」と書いた。道路、建築の外観はすこしは立派になっても市民のあいだに溌剌とした復興の気分は認められないというのがその観察結果で、谷崎のばあいモダニズムの徹底ぶりがかえって失望感を増幅した感がある。
帝都復興事業は公式には一九三0年(昭和五年)に完成をみたとされ、同年三月二十六日には帝都復興祭が行われた。後藤新平は復興の完成を見ずに前年四月遊説先で死去した。
帝都復興祭の年の十一月には浜口雄幸首相が東京駅で狙撃され重傷を負った。翌三一年九月には満州事変、その翌年一月には第一次上海事変が勃発した。こうして帝都復興祭のあとの世相はだんだんと軍事色を強めてゆく。
エドワード・サイデンステッカーは『立ちあがる東京』で「幸福な時代は、実際、短かった。むしろ復興に励んでいた時期のほうが、復興の終わってからの時代より幸福だったのかもしれない。復興後の時代は、不景気と、暗殺と、そして迫り来る戦争に覆われた時代だった」という見方をしている。
谷崎が見た「埃ツぽい、落ち着きのない、カサカサした空気」には帝都復興祭のあと色を濃くした「暗雲」が忍び寄っていた。