ヴェネツィアの花〜ガーディニアとラヴェンダー

フランスの作家ポール・モーランは、多くの作家がヴェネツィアに魅せられ、かれらの著作のインクがこの地の運河を黒ずませたと書いている。そのひとりアンデルセンは『即興詩人』でこの都市を「水に浮かぶ城」「アドリア海の女王」さらには「海の配偶者」「世界一の富豪」と讃えた。
日本人のヴェネツィア紀行では早くも明治四年(一八七一年)十一月から明治六年九月にかけてアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣された岩倉具視を正使とする大使節団の記録久米邦武編『特命全権大使 米欧回覧実記』に「空気清ク、日光爽カニ、嵐翠水ヲ籠メテ、晴波淪紋ヲ皺ム」なかゴンドラで運河を行けば「飄々乎トシテ登仙スルカ如シ」とあり、その興奮をいまに伝えている。
洋の東西を問わず人々はこの都市に魅了されてきた。歴史家のF・ブローデルヴェネツィアは「全世界の愛の交差点で、つねに燃え続ける炎にほかなら」ないという。(『歴史紀行 都市ヴェネツィア岩崎力訳)
映画では「旅情」「夏の嵐」「ベニスに死す」をはじめ数多くの作品がこの街の姿をフィルムにとどめている。
水の都ヴェネツィアにたいしてフィレンツェは花の都と呼ばれる。ところが塩野七生『海の都の物語』によると、フィレンツェは城壁の外に出ると緑が多いためにかえって市街や自宅の庭を花木で飾る気風は育たなかったそうだ。フィエーゾレの山々とサン・ミニアートの丘陵に囲まれ、中央にはアルノ河のゆたかな水が流れる緑多い都市ゆえの「贅沢」だった。映画「眺めのいい部屋」でルーシーがジョージから不意に熱烈なキスをされたのもハイキングに出かけた萌える緑の郊外での出来事だった。
いっぽう海上に浮かぶヴェネツィアは緑に囲まれる幸運に恵まれず、だからこそ小さな場所でも草木を植え、花を栽培するよう努めた。水の都ゆえにかえって花木への思いを強くしたのである。永井荷風が酷愛したアンリ・ド・レニエの詩集『水都幻談』には「こはただに大理石と水の都ににはあらざるなり。庭園もまた数多く、緑なす樹木の土壁に囲まれたる」とある。(青柳瑞穂訳)
そこでいくつかの旅行記ヴェネツィアと花との取り合わせを探ってみたけれど、残念ながらいまのところ詳しい記述には出会えていない。
思い浮かぶのは映画「旅情」で重要な小道具として用いられたガーディニア(クチナシ)の花だ。

アメリカからあこがれのヴェネツィアにやって来たジェーン(キャサリン・ヘプバーン)とサンマルコ広場で知り合ったイタリア人男性レナート(ロッサノ・ブラッツィ)が夕食をしていると花売りがやってきて、レナートが君の好きな花をどうぞと言うとジェーンはガーディニアを選ぶ。
なぜこの花なのと訊くレナートに、ジェーンは、はじめて本式の舞踏会を経験したときガーディニアをつけようと思ったの、でも相手の男の子は学生で一本が二ドルもしたから断念したと答える。そして「夢の花なんだ。夢はいつかきっと叶うよ」「だったら待つことにも意味があるのね」とつづく。
ところが食事のあと二人で橋の上からゴンドラを眺めているうちにジェーンが花を運河に落としてしまう。レナートは拾おうとして手を伸ばすが、もうちょっとのところで届かない。(写真は運河の水面に映る二人。レナートが手を伸ばしている。)

ここのところで淀川長治さんのおもしろい解説がある。
「女のほうは、こんなことは一度もなかったので(まあ、うれしいなあ、うれしいなあ)と、喜んで、満月の晩にデートしたら、橋の欄干から落としてしまった。男は川に飛び込んだらいいのに、そうはしなかったのね。これがこの映画の愛の訣別の暗示なんですね。このシーンがわかると、ラストシーンの花がもっとわかるようになりますねえ」。(『淀川長治究極の映画ベスト100』)
そのラストシーンでは泪ながらにジェーンを見送るレナートの手に白い小箱があり、渡そうと走っているうちに小箱を落とし、なかから一輪のガーディニアの花がこぼれる。デヴィッド・リーン監督は、行きずりの中年の恋の哀しさをガーディニアに表現したのだった。
ガーディニアの花言葉は「幸せを運ぶ」「私は幸せ」「胸に秘めた愛」。幸せを運ぶ花は運河に流され、サンタ・ルチア駅でも手渡されないまま終わった。
何冊か読んだ旅行記のなかでは田之倉稔林達夫・回想のイタリア旅行』に「旅情」の話が出ていた。著者はイタリア関係の著作の多い演劇評論家で、本書は一九七一年の夏、当時三十代のはじめだった田之倉氏が、七十五歳の思想家また西洋精神史の研究者林達夫のはじめてのイタリア旅行に同行したときの記録である。
ヴェネツィアでの一日、談たまたまラヴェンダーの話になった。ラヴェンダーは、「作庭記」「園芸案内」といったエッセイを書き、また庭仕事によって歴史と美学と自然科学と技術を勉強しているという碩学のお気に入りの花だった。

このラヴェンダーが呼び水となり「旅情」の話となった。
ラストシーンでキャサリン・ヘプバーンヴェネツィアのサンタ・ルチア駅を離れる汽車の窓から放り投げたのがラヴェンダーで、この植物には「ちぎり」とか「結びつき」の含意があるから、ヴェネツィアでつかの間のアヴァンチュールを楽しんだアメリカ女性がこの花で以て訣別の言葉を伝えようとした、と林達夫は語ったという。
ラヴェンダーの花言葉を見ると「優美」「沈黙」「疑惑」「繊細」「あなたを待っています」とあった。アメリカに帰るジェーンは汽車から、あなたを待つというちぎりを断念して花を投げたのだった。
もちろん映画はこうじゃないけれど、記憶違いにしてもまことに首尾一貫していてガーディニアに代えてラヴェンダーを小道具に配したリメイク版を期待したいくらいだ。
林達夫がラヴェンダーを贔屓にしたのはそのイギリス好みによるが、もともとはローマ人が征服地のイギリスにもたらした花で、原産地にしてもガーディニアが東アジアであるのにたいして、こちらは地中海沿岸だからアドリア海に面したヴェネツィアとのご縁は深い。「旅情」とラヴェンダーが結びついていたのもこうした事情が作用していたのかもしれない。