「許されざる者」

クリント・イーストウッド監督・主演による西部劇映画『許されざる者』が舞台を明治時代初期の蝦夷地に移し、北海道の雄大で荒々しい自然を背景にした壮烈なドラマとしてリメイクされた。
幕末に賊軍として追われながら官軍兵士をメッタ切りにして人斬り十兵衛(渡辺謙)と怖れられた釜田十兵衛が、むかしの仲間である馬場金吾(柄本明)の賞金稼ぎの話にのり、途中知り合った若者沢田五郎(柳楽優弥)とともに鷲路という村へ出向く。女郎の顔を切り刻んでおきながら軽微な処置で済んだ男二人の殺害が目的だが、その村では大石一蔵(佐藤浩市)という警察署長が絶対的な権力を振るっている。
賞金の出どころは大石の処置に憤懣やる方ないお梶(小池栄子)をはじめとする仲間の女郎たちだ。顔を切られたなつめ(忽那汐里)という女郎も男の逸物の貧弱を嗤ったというからほめられたものではなく、ずいぶんとお粗末な話だが、それはともかく、警察署長として、私的な制裁は法律としてはもちろん、その権力基盤を揺さぶるものとして許しておくわけにはいかない。

官憲との対立を辞さない賞金稼ぎだった。しかし、カネのためと割り切ったはずの馬場金吾と沢田五郎に倫理の液状化現象が起こる。いずれも食い詰めた果ての行動だが、カネを人助けという体裁にくるんでみても自身の行動に確信は得られるはずもない。
極貧の生活に苛まれる子供たちを思ってやむを得ぬ行動に出た十兵衛にしても、かつてのように生きのびるために酒を飲み力の限り刀を振るったときとは違う。
「人を斬って、斬って、斬りまくって、最後には誰かに斬られてしまう。それとは違う人生があることを知るのに何十年もかかった」。
二人の幼い子供を残して逝ったアイヌ女性の妻が十兵衛に教えてくれた人生だ。にもかかわらず馬場金吾の誘いを受けてしまった。いくら抗弁しようとしても倫理上の危機は押し寄せる。亡妻へのせめてもの心づくとして十兵衛は酒を断ったままでいる。
賞金稼ぎの三人と警察署長との決定的な違いはこの倫理上の危機の有無にある。明治新政府の官吏である大石一蔵にこの問題はなく、法と権力を笠に着て力を行使すれば済む話である、
こうして賞金稼ぎの物語は、官憲との対立にくわえ、暴力と倫理の問題をめぐるドラマの様相を帯びる。賞金稼ぎの三人と警察署長それぞれの対処が新たな状況を生む。ここのところの役者陣の演技が見どころで、金吾が、五郎が、人殺しに怯え、腰が引けするうちに、十兵衛がとうとう酒を飲み警察署長と対決するまで緊張が続く。
フラガール 」「悪人」の李相日監督のリメイクは再創造と呼ぶに足るけれど、比較してとくにわたしが思ったのはウィリアム・ビル・マニー(クリント・イーストウッド)と釜田十兵衛、保安官ダゲット(ジーン・ハックマン)と大石一蔵の人物像の相違だ。
前者でいえば、ウィリアム・ビル・マニーはかつて列車強盗や殺人で名を馳せたアウトローだったのに対し、釜田十兵衛は官軍に追われて生きのびるために人を斬ったのだから、政治的敗者であってアウトローではない。二人の悪の様相はずいぶんと異なっている。
おなじく後者の保安官ダゲットは大石一蔵と同様に暴力的な方法で街の秩序を維持していたが、彼のばあいは法と権力を笠に着るのではなく、町の秩序のためには暴力の行使も辞さないのが信念と見え、そのぶん大石一蔵が小賢しい末端の官吏と映るのは避けられない。こうしてオリジナル版に漂っていたアウトローの挽歌という詩情は薄れてしまった。
代わって沢田五郎となつめの若い男女が雪のなかを十兵衛の子供たちのところへ急ぐ姿にかすかな希望の灯がともっていたのは言い添えておかなければならない。
(九月二十八日丸の内ピカデリー