猫の恩返し

うららかな春の日。あるお婆さんが手拭いをかむり、庭先の縁台で白魚を選り分けていた。するとうずくまっていたぶざまなほど大きい飼猫が「ばばさん、それをおれに食わしゃ」といった。
するとおばあさんは猫の言葉に振り向こうともせず子供でも叱るような口調で「おぬしは何をいうぞ。まだ旦那どんにも食わしゃらぬに」といった。
これをわずかに離れて見ていた者がいて、いま一言なにかしゃべらないかと待ったけれども猫は睡ってしまったらしく、それなり口をきかなかった。
森銑三『物いふ小箱』にある猫が物いう話のひとつである。
『物いふ小箱』はラフカディオ・ハーンの『怪談』を愛してやまなかった著者が、ハーンに聞かせたいとの思いで書きつづった怪異譚で、猫でいえばこの物いう猫や天神様の境内で輪になって踊るいなせな猫が登場する。
十九世紀なかば安政期の随筆で宮川政運が著した『宮川舎漫筆』にもめずらしい猫が登場する。

文化年間のこと、ある両替商が猫を飼っていた。出入りの魚屋があり、両替商の家に来るたびにこの猫に魚肉をあたえていた。いつしか猫は魚屋を見ると甘えてねだるようになった。あるとき魚屋が長患いして寝込んでしまい、手許不如意になったが、いつ、誰がしたとわからないままに二両の金子が置かれてあった。
病癒えた魚屋が商売の元手を借りようと件の両替商を訪ねた折り、いつもの猫がいない。猫はと問えば、先だって金子二両が紛失し、そのあと二度も猫が金をくわえて逃げていこうとするので、はじめの二両も猫のしわざにちがいないと、猫を殺してしまったとの返事だった。
患っているあいだに二両もの金が家に置かれてあったのが不思議でならなかったが、あの猫のしたことにちがいないと魚屋は涙を流しながら包紙を取り出したところまさしく両替商の用いているものと知れた。魚屋に日頃の恩に報いんと金を届けようとした猫を不憫に思った両替商はその志を義として魚屋に金子を与え、魚屋は猫の死骸をもらい受け回向院に葬ったという。
大槻文彦言海』の猫の語釈には「人家ニ畜フ小サキ獣、人ノ知ル所ナリ、温柔ニシテ馴レ易ク、又能ク鼠ヲ捕フレバ畜フ。然レドモ竊盗ノ性アリ。形虎ニ似テ二尺ニ足ラズ」とある。金子を魚屋に届けたのは「竊盗」(せっとう)にほかならぬが、この説明は猫には酷だと思う向きもあるだろう。
芥川龍之介は「澄江堂雑記」で『言海』の語釈を引き、これはちょいとひどいじゃないか、たしかに猫は膳の上の刺身を盗んだりするとしても、ならば「犬は風俗壊乱の性あり」「燕は家宅侵入の性あり」「蝶は浮浪の性あり」「鮫は殺人の性あり」といってさしつかえなくなるわけで、どうも大槻文彦先生は「少くとも鳥獣魚貝に対する誹謗の性」を具えた老学者であるとやんわりと批評した。
大槻文彦ならずとも、犬には「犬は三日飼えば三年恩を忘れぬ」ということわざがあるが猫には見当たらない。それを意識してかどうかは知らないけれど宮川政運は恩返しの猫を随筆にしるして「凡そ恩をしらざるものは猫をたとへにひけど、又かかる珍しき猫もあり」と汚名を濯いでやりたかったのではないか。芥川が「澄江堂雑記」を書いたときもおなじ思いだっただろう。