「異質」な日本人へのまなざし(関東大震災の文学誌 其ノ十五)

関東大震災にともなう二大事件として甘粕事件と亀戸事件がある。
前者は九月十六日、無政府主義者大杉栄伊藤野枝夫妻と大杉の甥である橘宗一の三名が憲兵隊に連行、殺害された事件で憲兵大尉甘粕正彦が主犯とされた。憲兵や陸軍の責任は問われず、すべて甘粕の単独犯行として同年十二月に禁錮十年の判決を受けたが甘粕は早くも二六年十月に出獄して予備役となり、陸軍の予算でフランスに留学した。

後者は東京府南葛飾郡亀戸町(現・東京都江東区亀戸)で、社会主義者の川合義虎、平沢計七ら十名が、以前から労働争議で敵対関係にあった亀戸警察署に捕らえられ、九月四日から五日にかけて習志野騎兵第十三連隊により殺害された事件を指す。警察は事件の事実を発生からひと月以上経過した十月十日まで認めず、犠牲者の遺族や友人、自由法曹団、南葛飾労働会などが真相究明を求めたが軍の行動は戒厳令下における適正なものだったとされ責任は不問に付された。

関東大震災は日本社会にある朝鮮人への差別、蔑視をあらわなものとし、暴行虐殺による多数の被害者を生んだが、朝鮮人へのまなざしはおなじく「異質な」日本人にも向けられた。甘粕事件と亀戸事件はそのことを示している。
〈「それにしても、社会主義者なんかどうなったでしょう?何でも活躍しているッていう話ですな?」
「そうでしょうな」
「山本内閣だッて、こういう時を利用して、旨くやっているんでしょうな?」
「やかましい新聞がないからね?」
「何しろ、こういう無政府、無警察状態では、どんなことでもしようと思えば出来るわけですからな!」
「そうですね」〉
上は震災直後、田山花袋が書きとめた知人との会話で、これを読むといわば社会のタガがはずれた状態のなかで朝鮮人社会主義者への警戒感とともに何をしでかすかわからない権力への警戒意識もあったことがよくわかる。甘粕事件も亀戸事件も「やかましい新聞がない」なかでの出来事だった。くわえて何をしでかすかわからないこの権力を支える自警団の活動があった。

自警団が警戒したのは朝鮮人であり、社会主義者であった。社会主義者の延長線上には「異質」とされる日本人がいて、累はここにも及んだ。「異質」とは「非国民」にほかならず、自警団の眼はここにも注がれていた。そのことを水上滝太郎は震災後の町内会の見廻りを描いた「遺産」(『銀座復興他三篇』岩波文庫所収)で採り上げて、震災が地域に及ぼした人間関係のありようを描いている。
高利貸しで一財産築いた父が周囲から名前の上に鬼という字を附けて呼ばれていたのを知る息子井原富吉は父の亡きあと世間と没交渉で暮らした。富吉は門前で遊んでいると町の子供から石をぶつけられ、学校へ行くようになると小鬼のあだ名で呼ばれた。塀の外に足を踏み出す勇気はなく通学は止して家庭教師が雇われた。生まれてこのかた友人という人間はひとりもいない。屋敷の廻りは人の恨みを遮断しようとするかのように高い塀がめぐらされている。
震災はこの塀を崩した。隣家には小説家である「彼」が住んでいて、塀の崩壊が「彼」と井原富吉を顔見知りにした。小説家には自警団や夜警など迷惑この上ない。夜中に拍子木をたたいてあるくのは仕事のさしつかえ以外の何物でもないのだが無理に断るとどういう目に遭うか知れない。
そのいっぽうで、震災を機に塀の外に出てきましたと隣人の小説家に挨拶する井原富吉には「町内の申合せだという夜番にも参加するんですねえ。実は私もあんな事は不賛成です。不賛成というよりも大切な夜の時間を奪われるので閉口しますが、これも人間の世の中の面白い所だと考えれば我慢出来ますよ。第一地震このかた、社会の秩序が乱れて、人間が乱暴になっていますから、うっかり拒絶すると何をするかわかりません。罪もなく人間を斬ったり突いたりした位だから、ぶちこわしでも火つけでも敢て辞さないでしょう。それよりも奴等の先手を打って、こっちから出向いてやろうじゃありませんか。私といっしょに拍子木を叩いて町内を廻りましょうや」と説得するのだった。
小説家と井原富吉は一方が提灯を持てば他方が拍子木を叩いて夜警を務めたが、町内の人たちの井原への視線に変化はなかった。
ある晩、気を揃えるためには服装も揃えよというわけで、兵隊式の帽子と青年団式の雨合羽を二人は着けさせられるはめとなる。床屋の親方が「さ、お前さんもお揃にして貰おうじゃあねえか」と強圧的喧嘩腰に井原の頭に帽子を載せたところで、井原の感情は切れてしまい、帽子を地面に叩きつけた。
〈「何をしやがんでえ。」「たたんじまえ。」「やっつけろ。」「高利貸。」「社会の敵。」
「鬼。」「畜生。」〉
こうして井原の屋敷は震災前より高く頑丈な塀が廻らされた。小説家は隣人を町内の人たちとの交際に引き出したものの無惨な結果となってしまった。
震災を機として出来た自警団という地域の紐帯が「異質」を排除する事態を水上滝太郎は警戒の念を以て見つめていた。『銀座復興他三篇』の解説を担当した作家の坂上弘は、水上は「庶民の絆などというものが、町内会では、暴力と紙一重であることを見逃していない」と述べている。
震災当時流行語となった「この際」はやがて「非常時」として拡大再生産される。その流れは震災に対する緊張が、戦争への緊張にシフトしたと映る。寺田寅彦が「非常時」という何となく不気味で、意味がはっきりしない言葉が流行りだしたのはいつ頃だったかと「天災と国防」に書いたのは一九三四年(昭和九年)だった。震災から十年余り、寅彦は「非常時」として緊張を作り出す日本の政治と社会を憂慮していた。寅彦の憂慮と水上滝太郎が「遺産」に描いた自警団や町内会のありようとは深いところで通じあっている。