「さよなら渓谷」

都会から渓谷のある村へやって来て暮らす三十代の夫婦がいる。ともに地元の事業所に職を得て、男は少年野球のコーチをしているが、生活のたたずまいはひっそりとしている。
そこへ隣に住む女が自分の子供を殺すという事件が起こり、不可解なトラブルが夫婦に及ぶ。逮捕された女が警察で隣家の夫と不倫関係にあったと言っているという。夫に身に覚えはなかったが、妻のほうは思いがけない行動をとる。隣の女の虚言が妻の心に変動を及ぼしていた。ミステリアスな心の動きにはある事情が介在していた。

夫婦の事情は隣人の事件を取材する週刊誌の下請け記者が知るところとなる。
男は大学野球リーグ最優秀選手賞に輝いた実績もあったが、レイプ事件を起こして他の部員とともに中退していた。女は事件の被害者で、この出来事があとあと尾を引いて縁談は壊れ、ようやくこぎつけた結婚生活だったが、ここにも事件が陰を落として最後は破れた。
十五年の時間をはさんで出会った加害者と被害者がいま渓谷の村で生活をともにしている。
子殺し事件の取材にあたっている記者は大学ラグビーを経て社会人チームでプレーしたが、けがで選手生活を断念し退社した過去を持つ。妻はそれがやりきれない。記者は自身の経験と現状の生活を通して渓谷の村の夫婦を理解し、心を寄せようとする。
世間を避けた夫婦の生活は鈍色に覆われているようだ。家族、友人のまなざしを避けて逃れたとしても、自分たちの過去が精算できるはずもない。そうした心模様がこの映画の風景描写にはとてもよく表れている。
ここには祝福されて結ばれた夫婦の言葉や未来志向はなく、あるのは逃避、挫折、後悔、贖罪、加害者のうち一人だけ被害者に向き合う男の「誠実」、レイプが結んだ腐れ縁だ。そしてもうひとつ、道行きに堕ちようとする男と女がぎりぎりのところで人生に踏みとどまっている力がある。
主役の真木よう子大西信満の二人はこれらが絡む複雑な感情をよく表現していた。
ラストシーンで大森南朋の記者が男に問いかける。
「事件を起こさなかった人生と、かなこさんと出会えなかった人生のどちらを選びますか」。
役者大森立嗣は「海炭市叙景」ほかでお目にかかっているが、監督作品は本作がはじめて。これまでの作品を観ておかなくては。
(七月十日スバル座)