「嘆きのピエタ」

ソウルの一角、清渓川(チョンゲチョン)周辺。かつては産業が栄えた町だというが、いまは高層ビル群の谷間で、零細企業といってなお首をかしげてしまう極貧の工場があえぐように乾いた機械の音を発している。この町でガンド(イ・ジョンジン)は闇金融の取り立てで喰っていて、担保なしの高金利貸付にともなう暴力と恐怖を一身に担う。

その取り立ては常軌を逸した目を覆わしめるものだ。債務者にはあらかじめ保険をかけさせておき、返済不能に陥ったときは飛び降りを強要して足を骨折させ、あるいは万力でその腕を破砕して保険金を返済に充てる。債務不履行障碍者となることにほかならず、それを承知で借金せざるをえない人びとへ冷酷非情な暴力が繰り返される。
悪魔の化身のごとき男は生まれたとき捨てられ三十歳のいままで天涯孤独に生きてきた。そこへある日、見知らぬ女ミソン(チョ・ミンス)が現れて、母を名乗る。ほんとうに母親なのか、ならばどうしていまになって現れたのか。母親でなければ何者であり、何を目的として現れたのか。
差し出された謎はサスペンス・ドラマとしてわくわくするものだが、やがてこの謎が不穏というよりグロテスクに近い空気がただようなか二転三転しながら真相に近づくにつれて観る者はキム・ギドク監督が、現代において回心という宗教的体験、内面の大転換はありうるのか、あるとすればどういうかたちで存在するのかというもうひとつの大きな謎、問いかけを用意してあることに気づく。
原題は「ピエタ」。十字架から降ろされたイエス・キリストを胸に抱く聖母像の題名にわたしは過度に宗教を意識したのかもしれない。必ずしも宗教を念頭におかなくても人間の根源が見据えられ、そのありようが描かれているのはたしかなのだから。しかし母親を名乗る女の謎が解明されたときのガンドとそれを企図したミソンの魂は現代の奇蹟と呼ぶにふさわしい。
最後になったがミソン役のチョ・ミンスの哀しく美しく鬼気迫る演技は特筆しておかなくてはならない。
(六月二十三日Bunkamuraル・シネマ)