映画と本とリサイタル

新文芸坐の特集上映「高峰三枝子と八人の巨匠」で「暖流」と「婚約三羽烏」を観た。ともに大好きな映画なのでとてもごきげん。前者の高峰三枝子の志摩啓子と水戸光子の石渡ぎん、二人の役名はめずらしくしっかりおぼえている。ほかに昔の邦画ですぐ挙げられるヒロインは、高石かつ枝(「愛染かつら」)、氏家真知子(「君の名は」)、寺沢新子(「青い山脈」)といったところかな。
 
「暖流」で看護婦の水戸光子が勤務を終え和服に着替えて佐分利信の家を訪ね畳に座り両親に挨拶したあと、二階で佐分利と対座し急須でお茶を入れる場面がある。礼儀作法を云々できる柄ではないけれどその所作は失われた日本の風景を見ている心持になる。それと高峰三枝子の令嬢の山の手言葉「ごめんあそばせ」も。
「婚約三羽烏」のほうは観ているうちに洗練されたジャズやタンゴが流れるなか心の緊張がほぐされ頬がゆるんでくる。
昭和十二年に公開されていて、前年には藤山一郎の「東京ラプソディ」がヒットしている。昭和戦前のモダニズムが最後に輝いた時期といってよいだろう。上原謙佐野周二佐分利信のタイプの異なる男優陣に令嬢の高峰三枝子、モダンガールの三宅邦子等がからみ、飯田蝶子のおばあちゃんもよい味を出している。
今井正映画読本』(論創社)にある「戦争占領時代の回想」というインタビューで今井正は「とにかくあの頃僕は、日本で一番うまい監督だと思っていた。だから島津さんのシャシンを見て、一生懸命監督の仕方から何から勉強したわけですよ」と語っている。このころの島津保次郎凄すぎる。どこかで特集をやっていただきたいものだ。
うれしい二本立てに気分が浮き立ち、西武百貨店の地下で肴を買って帰り家飲みをした。こういう日のお酒は「あの美味い、いひ難い微妙な力を持つ液体に対する愛着」(若山牧水)をしみじみ感じる。
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金関丈夫『長屋大学』を読む。なかに太平洋戦争下、空襲による爆死者の相当数が下帯を失った状態にあるのを論じた「細川忠興もっこふんどし」という一篇がある。
多量の出血を伴うと躰が細り、ふんどしが弛んだ状態になるらしい。くわえて死体収容時に死者の両脇に手を入れ頭のほうへ引くと、弛んだふんどしはずるずると下がってしまう。見られるのがいやな人はふんどしの両側に紐を付けて肩にかけるようにしておくとよいと勧めている。わたしのばあい、生き恥さらしたうえに死にざまを見られるなどまっぴら御免だが、爆死というやむを得ない事情であれば逸物を見られてもなんとも感じませんけどね。

この論考の初出は一九四五年三月「旬刊台新」とあるかられっきとした敗戦を前にした議論だ。惜しむらくは女への言及がない。映画「青い山脈」で木暮実千代の梅太郎姐さんが大和なでしこはズロースなんてものは着けないとおっしゃっていた。昭和七年の白木屋大火災では、和装でパンティをはいていない女店員がロープをつたいながら裾の乱れを気にするうちに墜落したとの話もある。和服で下着を着けていなければ見える見えないの話にはならない。それともズロース、パンティはふんどしのようにずり落ちないから論ずる必要がなかったのだろうか。
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金関丈夫『長屋大学』を読み継ぐ。なかに「竹炭」というコラムがある。著者は、京都の旧家に宿っていて風呂をたこうとして竹を折りくべたところ、竹をたいたりしては湯沸かしの銅壺がいたむと叱られたという。その経験から話題が竹炭に及ぶ。竹の火力は木よりも強く銅壺を傷めるらしい。
金関先生はつぎに南宋四大家のひとり陸游の著した『老学庵筆記』を引く。それによると、北方は石炭多く、南方は木炭が多い。西蜀には竹炭がある。巨竹を焼いてこれをつくるとよく燃えて煙は出ず、火のもちもよい。ちょっと変わったものだが鉄を鍛えるには竹炭がよい、云々。
人類はさまざまなエネルギー源を発見し応用して用いてきた。その歴史を微細に見ると、それぞれの民族の知恵の結実としてのエネルギー源がいろいろと見いだされる。上の竹炭もそのひとつでずいぶん魅力的だ。脱原発にむけていろんな知恵を活かそうとする実験精神を望みたい。
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東京藝術大学キャンパス内にある奏楽堂で催された西国領君嘉さんの博士リサイタルに行く。
博士課程で日本舞踊を専攻する才媛のきょうの演目は前半が「長唄 娘道成寺」。プログラムの解説には「安珍清姫伝説がもとになって作られた能《道成寺》より出典した作品は数多くありますが、その中でも《京鹿子娘道成寺》は道成寺物の決定版と呼ぶにふさわしい作品です」とある。
唄と三味線等和楽器の演者の名前を見ると邦楽囃子を専攻する学部生、院生とともにプロの方も参加しているようだ。
後半は「新作 五障の桜」。「道成寺の鐘にまつわる悲恋の伝説を元に、時を越えて持続する『女の業』を日本舞踊とモダンダンスで表現」した作品。こちらは西国領君嘉さんと滝野原南生さん(山田奈々子ダンスグループ)の二人の立方。踊りの魅力とともに尺八、笛、打物にチェンバロがくわわった音色がとても素敵だった。

長年若い人たちと接してきたが邦楽関係への進学者はいなかった。正岡子規『病床六尺』に「同郷の先輩池内氏が発起にかかる『能楽』といふ雑誌が近々出るさうである。この雑誌は今まさに衰へんとする能楽を興さんがためにその一手段として計画せられたるものであつて、固より流儀の何たるを問はず、殊に囃子方などのやうやうに人ずくなになり行くを救はんとするのがその目的の主なるものであるさうな」とあるように、明治時代にはや囃子方の後継者が憂慮されている。いま舞台で歌い演奏する若者はどのような経過でこの道を選んだのだろう。見ているうちかれらが進路を選択したいきさつに興味を覚えた。
幕が下りて帰りがけに西国領さんのお母さんに呼び止められ、楽屋へ案内されたので演者にお祝いを述べることができた。はじめて見る楽屋はとても広く立派で「これは実家のほうの県立のホールの楽屋よりだいぶん贅沢なつくりかな」と同行のSさんに言うと「オレンジホールですか。でも、あそこは土佐の日曜市に近くていいですよねえ」とおっしゃる。ベテランの役者さんなのでさすがに詳しい。